アドラーの生涯

アドラー2

精神科医以前

1870年オーストリア・ウィーンのユダヤ人家庭に誕生する。1888年に18歳でウィーン大学医学部に入学。1896年プロテスタントに改宗。1897年ロシア・スモレンスクで3歳年下のライサと結婚する。1898年に28歳で「仕立屋のための健康手帳」を発行。これが初めての出版物である。当時ウィーンの小さな仕立て屋は劣悪な労働環境下での労働を余儀なくされており、このような状況の改善に強く関心を持ったことは明らかであるが、それと同時に社会的な仕組みが人々に与える影響や病気になる以前に健康な状態を維持することへの関心などアドラーの生涯を貫く支援の原理原則このことから感じ取ることができる。ただしこの当時のアドラーは内科医として開業しており、社会医学的な関心は高かった様子がうかがえるが精神科医として活躍するのはのちのことである。

フロイトとの活動の開始

1902年からアドラーはフロイトの精神分析サークルである水曜精神分析協会(ウィーン精神分析協会の前進)に参加。1907年に「器官劣等性の研究」という本を出版する。それに先立ってアドラーは分析協会で発表しているが、この学説はフロイトにも好意的に受け止められていたようだ。この器官劣等性の研究は劣等感、補償、優越目標などのちのアドラー心理学の根幹にかかわる理論へと発展していくことになる。しかし二人の学説は徐々にその違いが大きく目立ち始める。アドラーは人間の行動の背景にあるのはより満足する自分に近づこうとするための活動であると考え、小児性欲に端を発する性的な満足を主張するフロイトの学説を否定し決別の避けられない事態となる。

精神分析との決別

そして1911年アドラーはウィーン精神分析協会を脱退した。二人がどうやって知り合ったかは定かではない。アドラーがフロイトの著書「夢判断」を腐した記事に対して擁護したのがきっかけという説があるが誤りである。また、フロイトの1914年の論文「精神分析運動の歴史について」の中に語られている、精神分析を教えてほしいと希望した初期の一団の中にアドラーもいた、との記述があるが、これも誤りである。アドラーとフロイトは学説上の対立がもとで決別して以来、互いに互いを認めようとしなかったため、フロイトが敢えてアドラーをディスカウントする目的で記述した可能性すらある。アドラーのことを知らない専門家の臨床心理学入門書にはアドラーをフロイトの弟子として紹介する内容が載っていることがあるが、おそらく出展はこの論文によるものであろう。わかっていることはアドラーのもとにはフロイトから精神分析の勉強会に来てくれるように要請の手紙が届いていたことは記録に残っている。

個人心理学の旗揚げ

フロイトから離れた同じ年1911年アドラーは数名の元ウィーン精神分析協会のメンバーとともに自由精神分析協会を設立するが、翌1912年個人心理学会に改称する。また同年「神経質について」を出版している。この本の中でアドラーのアプローチがフロイトとは異なることであることが表明されている。それ以降アドラーは精神医学領域の臨床、学術、出版にかかわる活動を精力的に行うようになり、アドラーの名は国際的にも知られていくようになった。

共同体感覚

1916年第一次世界大戦に診療所を閉じ、軍医としてゼメリングの陸軍病院に勤務することとなる。この時の体験から強い影響を得て1917年共同体感覚について語り始めた。共同体感覚とは思想であり、科学的な心理学を志す一部の会員から離反を招く結果となるが、アドラーは戦争の悲惨な体験を通じて道徳の問題として扱われる話題をあえて心理学の中に位置づけることで社会的予防的な役割を果たすために必須のこととして考えたようである。共同体感覚は今に至るまでアドラー心理学の重要な基礎をなす思想として位置付けられている。

大戦以後の活動

1918年オーストリアは第一次世界大戦の敗戦国となり、帝国は解体しオーストリア共和国となる。戦争の後遺症により国内は混乱した状態となった。売春と少年非行が急増する中、アドラーは講演の中で精力的に教育の問題について語るようになる。1919年から1920年にかけウィーンに複数の児童相談所の開設にこぎつけることができた。ここでは公開カウンセリングが教師の前で行われ、子供のことで相談に来た家族が援助を受けることができ、教師がクラスの子供たちをどのように指導すれば良いのかを学ぶことができた。

1920年ドイツへと個人心理学を広め始めるが、その後オランダ、イギリスなども訪問するようになる。1924年アドラーを支持する教師の働きかけがあり、教育研究所治療部門の教授として採用された。ここでの活動は概ね公表で1927年よりウィーンでは教育研究所を卒業した教師以外は雇わないこととなる。

アメリカでの活動開始

1926年初めてのアメリカ講演旅行に出発。戦前よりアメリカのクラーク大学の心理学教授C・スタンリー・ホールはアドラーに関心を寄せており、戦後のアドラーの教育を中心とした活動はヨーロッパのみならず、アメリカからも注目を集めていた。そして2年後の1928年には2度目のアメリカ講演旅行へと赴くこととなる。アメリカでの活動に手ごたえを感じたアドラーは「人間知の心理学」の出版や数多くの講演を行い、英語圏での仕事に情熱を傾けていった。やがてアドラーはチャールズ・デヴァイスという協力者を得、アメリカでの活動を拡充してい
くこととなる。

1929年アドラーはニューヨークに移住するべく準備を開始するが、妻のライサは依然としてオーストリア共産党員としての活動を続けており、その必要性からもウィーンにとどまることとなる。同年リディア・ジッハーを後継者に指名し、アメリカへ移住。出版、講演、講義、教育、活動を行うが、翌1930年再びヨーロッパで活動を行うなどアメリカとヨーロッパをまたにかけて仕事をするようになる。

晩年

1933年ヒトラーが台頭。ヨーロッパの社会が再び混乱に向けて動き出す中1935年アメリカに家族で移住。その数年後にモスクワで生活していた長女のヴァレンタインが行方不明となる(後、強制収容所で亡くなっていることが確認される。トロツキーと関係があったことがスターリン政権の疑惑を招いたようである)。

1937年講演旅行中、スコットランドのアバディーン大学での連続講義4日目の朝アドラーは散歩中に倒れた。救急搬送される中息を引き取る。心臓発作である。享年67歳。

アドラーのもとには多くの心理学者が講義を聴きに方ことで知られている。ロロ・メイ、アブラハム・マズローなどである。またアドラーの理論の影響下に心理療法を開発したことではアルバート・エリス、ウィリアム・グラッサー、ビクトール・フランクルらがいるが、直接的な影響を表明していない心理学者の数は把握できない。アドラーの死後もアドラーに師事したヨーロッパ、アメリカの弟子たちによってアドラー心理学は発展をつづけて現在に至っている。

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