勉強することと働くことの意味を子供に伝える

学校などで児童生徒の話を聴いていると、時々「なんで勉強なんかしなくちゃいけないんだ」と言われることがあります。皆さんは何と答えるでしょうか。「将来良い会社に入るため」とか「自分のため」という回答を聴くことはありますが、そう言っている方はどれだけその答えを信じてそう答えてるでしょうか。

私の場合は「世のため人のため」と答えるようにしています。

「将来良い会社に入るため」「自分のため」というのはつまるところ将来自分が楽であるように、というメッセージが含まれています。そこには自分の都合を基準に物を考えるという発想が根本にあります。

自分の欲しいものを手に入れることを目的にする生活には快感はあるかもしれません。しかし何かが手に入った喜びは長続きしませんし、次に手に入れたいものは今度は手に入るかどうかわかりません。そうしたものに一喜一憂する生活は満足を手に入れようとして物欲に振り回されている忙しない姿だと思います。 

これは自分が頑張ればなんとかなりそうな状況での例ですが、社会の状況によっては頑張っても手に入らないことの方が多い環境というのもないわけではありません。景気が悪く仕事がない、給料が上がらない、など自分のせいではない要因がいくらでもあるからです。

最近とある小学校で「将来何になりたいか?」との希望調査があった時に担任がすごくがっかりしながら「『ホワイト企業』とか『正社員』とか書いてくるんですよ」と言っていたのを思い出します。こういう回答をしている小学生が自分の未来に明るい夢を抱いているとは私には思えません。しかし社会の空気を敏感に感じ取ているのだということは分かります。

昔は子供に将来の夢を尋ねると警察官、お花屋さんなど様々な職種の名前が返ってきたものですが、これらの職業はみな社会の中で何かの働きを表しています。つまり世の中でそのような役割を担いたいという子供の希望の表れなのだと思うのです。しかしホワイト企業や正社員は待遇を表すような名称でしかありません。

沢山勉強すればそれが報われても安心して生活できるほどの高給取りになれる、とは今の子供は信じていないのでしょう。終身雇用も昔の話となり、待っていれば出世できるという仕組みでもなくなりました。高度経済成長のころのように真面目に頑張りさえすれば経済的に報われるという実感が得られるほどの社会でもなくなりました。そのような環境で自分の将来の安定のために頑張る、というスローガンは空虚な響きしか持たないのかもしれません。経済的な成功を目標に掲げられても時代の雰囲気を感じ取っている者としては気力が沸きにくいのではないかと思います。
一体何のために勉強しなくてはならないのか、という疑問を発したくなるのもわかる気がします。

私は環境はどうあれ人は自分の役割をしっかりと意識しているときに人生の意味を信じ、幸せと感じられるのが本物だと信じます。そのためには自己中心的に物を考えたり、理財の多寡を尺度にしない方がよいだろうと思っています。

社会に組み込まれ、その中で意味のある役割を担っていること、平たく言うと自分は人の役に立つ存在であり、自分はみんなのためになることをして暮らしているし、みんなも自分を支えてくれている、というときに人は人生の手ごたえを感じながら生活することが出来ます。その時に私たちは充実感に満ちた生活を送ることが出来るだろうと思うのです。
それを簡単に要約すると「世のため人のため」なのです。

そのためには私たちは人々のために役に立つ能力を磨かなくてはなりませんし、自分が何に向いているのか、何をしたいのか、どんな場所で働いていたいのかを考えなくてはなりません。そうすれば自分の居場所はどんなときにも得ることが出来ます。

時代がどのようであっても人にとって自分の居場所を見つけられることが生きている実感を持てる人生を送る方法であり、子供に教えていかなくてはならないのはそのことを素晴らしいと思ってもらえることとそのためにどう工夫したら良いか、ということであって快適な人生を送るためのレールの上を歩くことではないと思うのですがいかがでしょうか。

そのために家庭でしなくてはならないことは、子供に自分が家族の中でなくてはならない存在だ、と感じて生活してもらうことだと思います。私たちの普段の振る舞いは家庭で身に着けたことの延長であることを知っておきたいものです。