アドラー心理学と認知行動療法

年が明けて初の投稿となります。

年末は慌ただしい時を過ごし、ブログの更新もままなりませんでした。今年はもう少し落ち着いてくれると良いのですが。

認知行動療法とは

カウンセリングに関心のある方なら当然のように耳にすることの多くなった認知行動療法ですが、今回はアドラー派のアプローチと比較して類似点と相違点について考えてみたいと思います。

なぜこの二つの比較なのかというと、認知行動療法の認知とは人間の考え方感じ方のことを指していますがアドラー心理学もカウンセリングや心理療法の中で人間の考え方と行動の関係にについて取り扱いますので、そういう意味で似ているところがあり、比較する意味があると思うのです。

このブログを読まれる方は比較的アドラー心理学をご存知の方が多いのではないかと思うのですが認知行動療法のことについてご存知の方はそれほど多くはないのではないかと思いますので先ずは行動療法についてざっくりと語ります。

認知行動療法はアーロン・ベックやアルバート・エリスなど、人の考え方と感情や行動の結びつきに焦点を当てた認知療法として分類される技法とワトソンやスキナー、ハルなどによる、主に動物の行動を観察して組み立てられた学習理論を臨床的に役立つ技法としてまとめた行動療法をくっつけて作られたものです。本来は別々に開発されたものなのです。

 

Aベック         Aエリス

認知療法では人が物事をどのように考えてどう感じるか、その結果何がどんな信念を持っていることが問題になっているのかを考えます。

行動療法は人の行動は外界からの信号と個人の反応がどのように結びついて(この結びつきのことを学習といいます)セットになっているものだと考え、誤った学習が行われているのであれば、脱学習をしたり必要なことを学んでいないのであれば新しく学習してもらおうとするのです。

ですのでここでは認知行動療法のうちアドラー心理学との類似点のある「認知」療法の部分との比較になります。

尚認知療法と行動療法はいずれも統計的に効果の高い技法として効果が証明されているものです。

認知療法は開発当初うつ病の治療をもっぱらにしていましたが治療成績は投薬治療に匹敵すると言われます。

 

どんなふうに似ているの?

私たちはいろんな出来事に遭遇するとそれによって一喜一憂することがありますが、人によって反応が全く違うこともよくあることです。

これは私たちが出来事によって一喜一憂しているというよりも、より正確には出来事をどのように受け止めて、自分にとってどんな意味があるのか、という意味付けを無意識的に行った結果生じた理解に基づいて反応が生じていると考えられます。

例えば

自分(仮に男性として)が歩いていると道の向こうからきれいな女性が近づいてきたとします。そして自分と視線を交わしたと思ったらさっと別な方を向いてしまいました。

このような状況があったとします。

起こった事実はこれだけなのですが、人によって自分を軽蔑したから目を背けたのだ、と思う人もいれば、視線が合ったことを向こうが恥ずかしがったのだ、と解釈する人もいます。

事実は全く同じなのにこの二人の気分には大きな違いが生じることが簡単に予想されるでしょう。

このように物の受け止め方の違いが私たちの感情に大きな影響力を持つということは認知療法もアドラー心理学もそのように考えます。

そして物の考え方、感じ方は普段はっきりとは意識してはいませんが人にはお気に入りのやり方が長年の癖のように染みついているので、人は似たような状況では似たような反応を何回も繰り返してしまうのです。

もし人がある状況下で何がしかの課題を感じているのであれば、そこには人が問題を感じるような考え方が潜んでいると想定されますし、それは対人関係に適応的ではないのでより適当な考え方を身に着けられたら適応的に行動できるようになるだろう、そう考えるのです。

「考え」は状況によって異なりますが、複数の場面で人は似たようなことを考えます。それはその複数の「考え」の背後には共通した信念が存在すると考えられるのです。

 

どんなふうに違うの?

カウンセリングや心理療法の部分のみの比較で考えてみます。どういうことかというとアドラー心理学には人間の成長や生活についての理論がありますが認知行動療法はそれらについては全く関心を向けていないので比較する意味がないからです。

 

先ずアドラー心理学では人間の行動は劣等感を少しでも埋めてより優越した自分を感じられる方向に動こうとするダイナミクスがあると考えます。そのため劣等の立場の認識とたどり着きたい優越の場所についての認識が存在します。実際に事例を理解するためにこの劣等-優越のワンセットで事例を考えます。

劣等感と優越感が軸同じ軸の両端である、または一つの価値観の劣等面と優越面のコインの裏表と考えるのです。人間の認識をこのように立体的にとらえることができるのです。

認知療法では劣等の位置のことを「認知の歪み」として語りますが、優越の位置については語っていないようです。ゆえにアドラー派から見ると平面的に人間の認識をとらえているように見えます。

そのためアドラー派の理解では劣っている自分をよりましな状態にするための方策やたどり着きたい状態をダイナミクスとして描写しようとするのですが、認知療法では「私は○○だ」という、どのように自分を貶める認知を持っているのかを描写しようとします。

必然的にアドラー派は人と環境との相互作用に大変注目するのですが認知療法では個人の心の中にあると想定する認知の歪みをクローズアップすることに注目しているように見えます。

人がどのような認識を持っているかを見極める方法もアドラー派では個人の歴史を一種の物語と考え、子供時代の話などを材料に丁寧に紐解いていきます。

認知行動療法では表面的な信念を手がかりに論理的なディスカッションや質問による検証を経て深い層にある信念にたどり着こうとするようです。

私の感じ方ですがアドラー派のアプローチは認知療法よりもより洗練されてた方法を用いているように思えるのです。

 

またアドラー派の統一的な見解ではありませんが、現在アドラー心理学を認知的にとらえるのではなく構造主義的にとらえる人たちも一定数おりまして(私もこの立場です)、人の頭の中に認知があるわけではなく、言語として形を持ったとき、自分が自分の気持ちを言葉で表現したときやカウンセラーが解釈を行ってそれが受け入れられた時に初めて考えが生まれる、と考えるのです。

上記段落で語られている理屈は考えたこともない人にとっては理解が難し考え方です。私もしばらく頭をひねり続けました。ですから今は意味不明で構わないと思います。

この構造主義という哲学の立場に立つならばアドラーは認知主義ではなくなりますのでこの点も似ていないことになるでしょう。

 

なぜ似ているのか?

ではなぜアドラー心理学と認知行動療法はこのように似ているのでしょうか。

相互に関係なくとも同時多発的に似たようなことを考えた人が存在する、という現象は科学の世界でもいたるところで見ることができますが、実はこの場合は異なります。

Aエリスはアドラー心理学を学び、自ら合理感情行動療法(名前が無駄に長い。国分氏が与えた和名論理療法は意訳が過ぎたのか最近使われませんね)を創始してからも北米アドラー心理学会の会員でしたし亡くなるまで籍を置いていました。

Aベックは精神分析を学び、そののちに認知療法を創始したことはよく知られています。しかし彼も認知療法を創始するにあたりアドラーから影響があったことを認めていることは知られていません(但し私は直接出典を見つけられませんでした。見つかったら紹介したいと思います)。

この二人に限らず現実療法のウィリアム・グラッサーも北米アドラー心理学会に招かれた際(記憶があいまいですが)にアドラーからの影響を認めています。

 

wグラッサー        Vフランクル

「夜と霧」で有名なビクトール・フランクルに至ってはアドラーの弟子でした。フランクルのアイディアの中核はそのまんまアドラー心理学の共同体感覚を彼なりの語り口で語ったものですし。

アドラーの影響を直接間接に受けた心理学者の数はまだまだいるでしょう。まだ認めたという話は聴いていませんが、これ似てるよね、という心理療法も存在します。

このようにアドラー心理学を学んでいるとどこかで聞いたような話に頻繁に行き当たります。

 

今回の記事は正確さよりも(これでも)分かりやすさを心がけて書いたので詳しい方は何か言いたくなる人もいるかも、とも思いつつ書きました。ご容赦。

 

 

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