特別支援教育とは
特別支援教育とは全ての障害(視覚障害、聴覚障害、身体障害、知的障害、広汎性発達障害)を持つ子供たちに、彼らの特性にあった教育を提供する目的で学校教育法に位置づけられた制度であり、かつての盲学校、聾学校、養護学校なども全て特別支援学校というように統一されました。それにより現在は特別支援学級、特別支援学校で教育を受けることが可能です。
一般の学校では通常学級に在籍しながら必要な特別支援をそれに特化した学級で受けることができるのです。
その中でも今回は特に知的障害を持つ場合の特別支援教育を取り上げたお話しをしてみたいと思います。
視覚、聴覚障害や重度の知的障害などの場合はその存在が比較的明らかになりやすいと思われますが、知的な障害が軽度である場一般の学級で生活する中で担任が、勉強やそのほかの特徴に気が付くことで明らかになることがあります。
このような経緯をたどって学校から特別支援学級を勧められることがあります。しかしその時の障害の可能性を指摘することによっては困難が発生する場合があるのですが、今回の話題はその周辺のことを巡ってのものになります。
知的障害ではないかと担任に思われることについて
担任から遠回しに学力の低さが知的な問題に基づくものではないかと伝えられたとき、子供が勉強できないことは知っていたけれど知的障害の可能性を指摘されたことで、今まで健常者だと思っていたのに障害者かもしれない、と言われたことになります。
そして受けた指摘をどう解釈するか、という点において保護者の性格によってかなり受け止め方が違ってきます。
勿論愉快に感じる保護者などいらっしゃらないことでしょう。
一番のお勧めは素直に耳を傾けることです。
担任に指摘されたのはあくまで可能性ですから、確かめた方上で対応を考えていくのが冷静な判断だと思うのです。実際そのように考えて教育センターで知能検査を取られる方も少なくないですし、それをもとに適切な環境を整え社会資源の利用につながるのは最も理に適っていると思うのです。
担任の見込み違いであることもないではないですし、もっと他の特徴があることがわかることもあります。
しかし子供に障害があることを自分が悪いと言われているように曲解したり、子供に知的障害の可能性を指摘されたことを悪口を言われたかのように受け止めて敵意を抱いたり、運命の被害者であるかのように不必要に悲しんだり、などの反応をされる方がいます。
感情的に動揺するのは良くわかるのですが、そこまで来ると状況の判断が非現実的で不適切です。
そして教師は子供の為を思って相談を持ち掛けていることに対して、まるで中傷されたかのように受け取って敵意を向けたり、接触を拒んだりという対応をとることがあります。
これらは保護者が過敏に劣等感を刺激された状況と思われます。保護者が欲求不満な状態に対して適切に対応できるかどうか、などのもともとの性格的な特徴と関わりの深い所だと思われます。
もう一度繰り返しますが担任は子供のことを考えて言ってくれているのです。
現場にいると担任が子供に知的障害があるのを感じていながらも保護者からクレームをつけられるのを恐れて先延ばしにしているケースなどは珍しくないようですし、小学校で結局何も指摘されずに中学校にまで来て初めて、ということだってあるのです。もちろん義務教育の間にとうとう最後まで何も言ってもらえなかった、ということもあるだろうと思います。
しかし敢えて担任が特別支援の話をしてくれた、ということは教師も自分たちのためにリスクテイキングをしてくれたのだ、とは考えられないでしょうか。
話をしてくれた担任は上記のリスクについて気が付かないから話してくれたわけではありません。承知の上でしかるべき対応をしてくれているのです。
学校の中を知っていればわかることですが、教師と保護者は対等か、と言えば建前はそうでしょうけれども実際のバランスを見ると保護者の方が圧倒的に強いと言わざるを得ません。
そんな中であえて職務に忠実に、子供のために最善を、と願ってくれたのだと思います。
担任は決して保護者に不快な思いをさせるために嫌がらせをしているのではないのです。
知的な障害は存在するのが自然なこと
知能は低いものから高いものまで人口の多さを調べると正規分布という釣り鐘型のグラフに描くことができます。
←知能指数の正規分布を表すグラフ
いつの時代もこのようにいろんな知能の水準の人口構成になると考えられます。フェニルケトン尿症などのように予防が可能な知的障害も存在していますが、防ぐことのできるものは限られていて一定の人口比で知的に低い人々が生まれてくるのが人の世の中の道理であると思った方が良いと思います。
知的障害の有無は知能検査の結果、つまり知能指数(IQ)でのみ決まるわけではありません。自分が所属する社会の中で適応して生活していけるかどうか、ということが肝心なのです。
例えば江戸時代、習字の手習いの反古紙を買い付ける屑屋や割れた茶碗をつなぐ職人や人糞を肥料として売買する仕事がありました。農村で鳥獣を見張るだけでも役に立つことはできただろうと思います。このような環境で能力に応じて働き、それにより自分の居場所がある世の中では例え知的に振るわなくても知的障害ではないのです。しかし今は社会が便利になり、表層的には進歩した世界を築き上げたように見えるでしょうが、本当でしょうか。本当に豊かな社会なのでしょうか。
現在の経済活動は昔と比べて高度な機能を発揮しないと職業的な居場所が手に入らなくなっていると思います。「仲間とともに暮らす」為に仕事をするのではなく、ひたすらお金のために、快楽のために強迫的にお金を追い求めているようには感じないでしょうか?
生活は便利になりましたが私たちは金儲けのために効率を最大化する社会を作り、人と人の関係は疎遠になってしまったように感じてなりません。この社会は確かにお金儲けは上手くできるようになりましたが、その裏で人間性や精神のの豊かさを犠牲にしてはいないでしょうか。これらのしわ寄せが真っ先に弱者に寄せられている気がします。
このような今の社会は不健康だと思うのです。今の社会が拝金主義に陥っていることは大きな問題であるという意識を広く共有した方が、これからの私たちの社会を良くしていく為に必要なことだと私は信じています。様々な能力水準の人がお金の為ではなく仲間と生活していくために自分に合った仕事が広く提供されている社会の方が私は健康な社会だと思います。
彼らを障害者にしているのはこの社会にもかなりの責任があるのではないでしょうか。
知的障害の相談先
では担任から話をもらい、その為に必要な対応をするにはどうしたら良いのでしょう。
最初にすべきことは状況を把握することです。果たして知的な障害があるのか、もしくは知的な障害を担任が疑うような他の問題があるのか、それらを確かめるのが先決でしょう。
恐らく担任は地域を管轄する教育センターを紹介してくれるのではないかと思いますが、そうでなければ自分で探しましょう。すぐに見つかります。場所によっては教育研究所といったり、自治体によっても名称が異なるかもしれません。
教育委員会に尋ねれば間違いありません。
他にも児童相談所でも相談にのってくれますし、精神科や小児科などでも相談可能です。
いずれに相談しても先ずすることはお話を詳しく聴いたのちに知能検査を行うことだと思います。本人の知的能力を測り、まず状況を客観的にとらえようとするのです。
些末なことかもしれませんが、医療機関でそれを行うには自己負担分の医療費を支払うことになります。教育センターや児童相談所では費用は発生しません。また医療機関の場合、必ず検査できる環境にはない事もあるので予め確認しておくと良いでしょう。
検査の結果によっては「療育手帳」という知的障害を持つ方が福祉制度を利用するための手帳を取得できるかもしれません。この手続きは児童相談所で行います。児童相談所ではよそで検査した結果をそのまま流用しませんので手帳を申請するには再度検査することになります。ですから療育手帳まで視野にあるなら児童相談所に最初から相談するのもいいかもしれません。また、知能検査の結果のみで単純に認定がされる訳ではありません。
知的障害者が活用できる社会的資源
療育手帳の取得については既に述べました。取得することによって様々なメリットがありますが区分や受けられる支援の内容は自治体によっても異なりますので興味のある方はお住まいの福祉事務所などにお問い合わせください。
特別支援学校では職業教育を行っています。知的な障害が存在する場合、残念ながら就ける職業の種類は限られてくるでしょう。しかしできることは当然いろいろありますし、その為の訓練を受けておくことは良い事だと思います。
将来のために早めに準備しておくことは大きなメリットではないでしょうか。
ハローワークも健常者と同様に利用できます。
その際障害者雇用専用の求人を利用することが可能です。但しその際療育手帳を提示して障害者雇用の対象に該当することを証明する必要があります。
このほかにももちろん様々な資源が存在しますが、全てを網羅するのは今回の記事の目的ではないので省略します。
親は子供より先に行きます。
その後の子供が人生を助けを借りながらでも送っていける準備を手伝ってあげるべきではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
通常学級に残ることで発生する状況
親は子供が大きくなれば他の子に知的能力が追い付くと思うこともあるようですが、知的に振るわないのが知的障害によるものであるならば、残念ながらそのような期待は裏切られることでしょう。
低学年の内は知的障害のある子供もクラスメイトと一緒に遊んでいられるかもしれませんし、クラスメイトも彼に障害があるなどとは気が付きません。しかし高学年になるに従い、障害があることに気が付き始めます。
本人は自分が障害であるとは普通思いませんが、クラスメイトと比較して勉強が追い付かず、クラスの中でくすんだ存在であることに気が付いています。
クラスメイトと過ごす長い時間のうちに知的障害のある子供は時にはクラスメイトに傷つけられ、もしくは自分とクラスメイトとの能力の格差に自ら知り、周りの大人の扱いがクラスメイトと自分とで微妙に違いがあることに気付き、強く劣等感を募らせ、自尊心を随分と痛めつけられているものです。
自信が無い、自分の力を信じられない、自分を価値ある存在と思いがたい、などの状況を用意に作り出します。
アドラー心理学では劣等感とそれにどのような態度をとるか、ということが理論の中でもとても重要な位置を占めています。
劣等感のない人間など存在しないでしょう。
そして劣等感は人が適切に行動を起こすための原動力となります。
しかし強すぎる劣等感は人を臆病にし、建設的な行動を起こす自信さえも蝕み、人を卑屈にさせてしまうことがあります。
例えばこんなことが起こるかもしれない
ここでは実際に私が経験したことをモデルとした創作事例を紹介してみたいと思います。
学級でずっとお客様状態になっていた子が完全不登校になった話
小学校4年の男の子で突然不登校になった子がいました。話を聴いてみると、とても
まじめな子でしたが勉強は全然ついていけず、授業中も発言などもなくて本人は今まで随分と苦痛に耐えてきたらしいこと、それが限界に達してギブアップしてしまったことが想像されました。
友達ができなかった青年の話
児童用のさる施設に20歳の男性が来所しました。かつての利用者だそうですが話を聴いてもらいたくてやってきたとのこと。専門学校に進学はし、クラスメイトはとても良い人たちみたいです。しかし彼はとても強く孤独を訴えます。
どんなに周りの人が良い人でも能力的な水準が違いすぎると保護する対象だとは思われても対等な友達にはなれません。
親が本人の知的障害を否認し続け健常者と同じ人生を彼に送らせようとしていましたが、そんな中で観察された一場面でした。
組織の中での仕事についていけなくなって適応障害になった人の話
職場での仕事についていけず、上司や同僚からの対応も冷たくなり身の置き所が感じられずに不眠やうつなどの症状が現れるようになりました。
医師が知的障害の可能性を考え知能検査をした結果、現在の職業に就くほどには能力が追い付いていないことがわかりました。
この方は所謂底辺校と言われる高校の卒業生で、随分昔のことになりましたが世の中が景気が良すぎて会社の中で人手が足りず、多少の難があっても人材を確保するために四苦八苦していた時期がありましたが、そのころに採用された方でした。
本来能力の追い付いていない方は上級の学校へ進学させるべきではないのではないかと私は考えますが、現在の制度では定員が割れていれば入れてしまうため、この他にも様々な問題が起きているように思います。しかしこれはまた別の話題ですので機会があれば改めて。
私の信じる最善を皆さんにはお勧めしたいと考えていますが、彼らを特別支援教育にやらないのは絶対いけない、とは言いません。最終的には自分たちの最も良いと思う決断をすれば良いのです。しかしそのために多くのことを考えて欲しいのです。
そして自分たちで下した決断にちゃんと責任を取るのなら問題ないと思います。
特別支援で何が悪い
スクールカウンセラーの経験からもアドラー心理学カウンセラーとしての経験からも知的障害児も一般の人々同様に人生をよりよく生きるためのチャレンジをしながら生きていって欲しいものだと思っています。
ただ知的障碍者はそのための能力は知的な面で一般の人々よりは劣っているのが事実です。公的に認定されようとされなかろうと中身は変わりませんし、本人に発揮できる能力の程度も変わることはありません。しかし公的に認定されない場合、支援を受けることはできなくなります。
私たちは先天的にであろうと後天的なものであろうと自身の能力の範囲で生活すべきだと思いますし、必要であれば社会からの助けを受けながら生活することに何ら問題はないと思っています。
知的障害があるのであれば知的障害者として幸せに暮らすということを考えるべきだと思います。
知的な障害を隠し、健常者として暮らすことが幸せであるとは思いません。その理由は上述した通りなのです。
特別支援に関わる方の参考になれば幸いです。
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