幸せな子に育てる
育児をする上で先ず親は我が子の教育者であることの自覚を持たなくては、という話を前回しました。もっとも自覚を持たない方は時間を使ってこんなHPを見てはいないと思います。
多くの親は子供にこんな人になって欲しい、という具体的な目標を持たないかもしれません。それは子育てに目標を持つのだ、ということを誰も教えてくれなかったからでしょう。
では育児の目標を持とうと思ったならば、一体どんな目標を持ったら良いのでしょうか?
将来子供に幸せになって欲しい、とは誰しも願うことでしょう。重要なのは「幸せ」になる条件とは何を満たしたときのことなのか?ということだろうと思います。
このことについてアドラー心理学の立場から考えていきたいと思います。アドラー心理学は「幸せ」について真っ向から考える、そして独自の見解を持っている心理学です。
面白い心理学です。
人は何を幸せと信じるか
「幸せ」の条件は人ごとに違うから一概に言えるはずがない、という人もいることでしょう。それはその通りですがやはり「幸せ」を感じることの背景には大きな共通点が存在していると思います。
たとえ話として小学生の「将来なりたいもの」を観察したときの話を取り上げてみます。
小学生の高学年くらいの子に将来の夢を尋ねると大きく分けて「生き甲斐」を求める子と「快感」を求める子に大きく大別されると思っていいでしょう。
ここでいう「生き甲斐」とは自分の興味ある役割を通して周囲の人々、つまり社会に有益な働きかけを行うこと、その結果周囲の人から肯定的なフィードバックを得ること、それを通して自身の存在に手ごたえを得、そこを居場所にできた時に覚える充実感のことです。
「快楽」というのは自分個人の欲求を満足させることを目的としたもの。金や名声、地位と言ったものの充足に関心を向けることと言っていいでしょう。
どちらも幸せやより好ましい状態についてのその人の解釈なのですが、何を幸せと考えているかが全く違います。これは子供に限った話ではありません。この解釈の違いは自分が選んだという自覚もないまま、今までの人生の中でいつの間にか選び取った価値観なのです。
A 人々と繋がり、自分の役割を頑張って果たすことが充実感をもたらすと考える。
B 自分の肉体的、精神的な快感を満足させることが幸せであると考える。
生き甲斐を感じる仕事というのは自分のある働きによって周囲の人を助けること、支えること、など自分の外に対して関心が向いています。社会の出来事が他人事ではありませんし、そこに肯定的な影響をもたらすために自分に何ができるかを考える姿勢です。
自分の好きなことを充足させることに関心を持つことは自分個人の快楽に関心が向いていると考えて良いでしょう。その分自分と他者とのつながりや他者の関心に関心があまり向いていません。
果たして人が幸せになれる道はどちらなのか?
私たちは人は人との意味のある繋がりの中に生きなければ幸せには慣れないと考えています。快楽を満足させるというのは動物的な欲求で、人間も動物的な存在でもありますから、そういう欲求は当然あるのですが、それは人間の活動の一側面にすぎません。そこに関心が集中するあまり、それがすべてであると錯覚したとき、人はもっと重要な人間的な領域での意味を学び損ねてしまうのです。
それは大変不幸な有様だと思います。
「幸せ」とは快楽のことではありません。それを幸せと錯覚し、追い求めることを最優先にすると他者との意味のあるつながりに意識が向かいづらくなります。
信頼する仲間と協力しながら自分にできることをする、例えそこに苦しさがあったとしても、みんなのためにそうすること、そしてみんながそのことを喜び、みんなが喜んでくれたことが自分の喜びと感じられること、その時に副産物として感じられるのが「幸せ」という感覚なのです。
カウンセリングでお目にかかる人の多くは残念ながら「幸せ」の意味を取り違えてしまった人であることが多いです。
世のため人のためと言わなくなった現在の躾け
さて、私たちは普段子供たちにどのように声をかけているでしょう?
「あなたが好きなように」
「自分が思ったとおりに」
などという語りかけをしていることが多いのではないですか?
本人の意思を尊重した理解ある親の態度、と現代では思われているでしょう。現代の価値観ではよりそれが望ましい事と考えられていはしないでしょうか?
さて、では「あなたの好きなように」「自分が思ったとおりに」と言われ続けた結果、人はそこから何を学ぶことになるでしょう?大人の意図とは違って「自分の都合」を優先的に考える思考の仕方が癖になってしまいはしないでしょうか?意図したことではなくても、そこでは個人の都合のみが語られているからです。
今の教育では軽んじられているように見受けられる「社会の価値観に沿って生きること」について十分に教えているという自覚のある大人はあまりいないのではないでしょうか?しかしこれまでこの記事を読んでくださった方にはお分かりかと思いますが、人と協力し合って生きる姿勢を身に着けていくことはとても大切なことなのです。そしてそれは意識的に発展させていくことができるのです。教育には本人の内側にあるものを引き出し育てることと、外側にある物事や価値について身に着けさせるものとがあるのです。
昔の日本人はこのことを無意識的にでしょうけれども良く知っていたのだろうと思います。
「世のため、人のため」という言葉に凝縮されているように私には思われます。そして現代ではほとんど死語になっているように思われてなりません。
個人的に能力が高くて社会的な希少性が高まれば、周りの扱いが良くなって幸せになれる、それは快感が人を幸せにするという考え方です。社会の勝ち組になる、という目的です。そしてこの記事ではそれが欲望全開、快楽志向の幸せの錯覚だと論じています。
もしそうならなくてはならないのなら、子供はあまたの競争相手に勝ち抜かなくてはなりません。人のことよりも自分一身のことを考えて。
しかし勝ち組よりは負け組の方がはるかに人口は多い理屈になります。不幸な大勢とごく少数の幸せ(と思っている)になった私でできている社会は健康な社会でしょうか。
これは私たちが考える幸せの姿ではありません。
ではどうやって幸せになるか?
幸せになる、という行為は存在しません。
話す、眠る、走る、などの行為は具体的ですが、幸せになる、という抽象的な行為はあり得ないのです。実行に移しようがありません。あり得るのは人々との関係の中でいかに協力していきるか、なのです。その活動を通して充実感が得られるとき、それを人は幸せと感じるでしょう。
私ではなく私たちのことを考える、そのために自分でできることをしようと決心する、他者と協力することを学ぶ
これらの姿勢を家庭の中で機会があるたびに伝えていかなくてはなりません。
ここでいう機会とは
お兄ちゃんが妹におもちゃを貸してくれなくて妹が泣き出した
本人には無理と思われるお手伝いをしたがって、案の定失敗してしまった
ゲームに夢中で宿題をする様子がない
夕食の後片付けをしなくてはならないのに、いつまでもだらだらとご飯を食べている
こんな時にどうしたら良いか、どうやったら彼らに協力を学んでもらえるか、と考えることです。抽象的な考えではなく、具体的な生活の中での行為についてアイディアがあることです。
子供のことでお目にかかる親御さんの多くは言います。
先生がいうようなことを常々言って聞かせているのに、と。
言って聞かせてもだめです。彼らはどう処遇されるか、から学ぶのですから。
具体的にその方法を学びたい、もしそう考えられるなら私たちはPassageをお勧めしています。この記事に賛同してくれる方が私たちと一緒に学んでいただけるなら大変うれしく思います。
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