千葉市のLGBT問題にみる異常さを考える-近代的価値観の病-

 

アドラー心理学には思想がある。思想があるなんて科学的ではない、という人にはこう答えることにしている。

「そうですよ、それが何か?」

私は現代科学哲学の定義に従って科学的であるよりも「実用的」であることが臨床心理の技術には求められると信じている。そしてアドラー心理学はどの心理学派に比較しても実用性で言えば比較にならないほどの有効性を示し続けている。

アドラー心理学が科学的ではないのならその他の多くの心理学は文学や占いの類になる。

さてアドラー心理学の思想によれば近代思想やそれに基づく現代の文明のあり方は病んでいると考えているのだが、例えば以下のニュース。

 

千葉市 職員や教職員向けのLGBT対応指針策定

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180405/k10011391471000.html

これも近代思想に基づいたポリティカルコレクトネスであると言っていいだろう。

実害が無いのに頭の中の理屈で差別(上記リンクの中には直接差別という語は登場しないが)を発見してそれに基づいて生活をゆがめるような真似をすることが忖度であり良い事だと思っている。これは市民様から怒られる前に少しでもクレームが付きそうなことには手を打とうということと行政である以上率先して人権優等生であろうとい意識が根底にあるのではないかと思われる。

ポリティカルコレクトネスとは1980年ころアメリカで始まった政治的に正しい言葉遣いであり、そのような姿勢が我が国の社会にも随分と影響を与えている。
偏見を排除した言葉の使い方であるということだが、話者に偏見や差別意識が無いのにも関わらず、つまり実害が無いのにも関わらず伝統的な言葉遣いを否定するという現象を生み出しているように思う。

私も含めこういった状況にウンザリしている人も多いのではないだろうか。一部に声の大きい思想的に偏った少数のものの影響力が姦しいだけで、多くの人は伝統的な価値観に基づいてこれまで通りに生活していきたいし、マイノリティの存在を認める準備もあるであろうに、配慮の名のもとに日本語の使い方にまで文句をつけられて口も迂闊に聞けなくなりかねない社会に息苦しさを感じていることを知るべきではなかろうか。

実害が無いのに頭の中の理屈で差別を発見してそれに基づいて生活をゆがめるような真似には言論の自由さえ脅かしかねない域に達しているのではなかろうか。

LGBTの皆さんが自分の主張する性別は好きにすれば良いし、その権利は認める。しかしもし彼らが自分が気に入らない、傷つく、で伝統的な日本語の習慣を変えろというのは全くの誤りであるし、変えるべきだとの異常なポリティカルコレクトネスを成立させようとする者たちの動きも全くの誤りだと思う。

社会的に認知されることと日本語の使い方を自身のジェンダーの観点から気に入る要らないは全く別の問題である。その区別もわからずとりあえず彼らの気持ちを忖度した気になって早手回しするのも全く異常な事態だと思う。

軽蔑を受けて待遇を不当に扱われる訳でもないのに、ただマイノリティが名称が気に入らないのを差別や権利問題だと思うべきではない。

いつもとは文体が違いますね。
少し感情が入ったのかもしれません。

 

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