勉強が苦手な子の未来を考える   -学業不振を超えて-

知的に振るわない子の将来を考える

このタイトルに興味を持ってご覧になっている方々は通常の小学校や中学校などの義務教育課程の子供を持っている親御さんや関係者ではないかと想像して書いています。

この記事で念頭に置いているのは通常の学級で怠けているわけではないのに学力の不振な子供についてであり、彼等の処遇をどう考えるかの参考にしてもらえたらと思って執筆しました。 正直読んでいて不愉快な気分にさせる箇所もあるかもしれません。あらかじめお断りしておきます。 

明らかな知的障害がある子の大部分は特別支援学校に進学すると思います。そのような子供達は能力に見合った学習活動を行い、 その進路を支援する体制や福祉のサービスが整っています。

しかし通常のクラスに在学していて、勉強の苦手な子は福祉の対象ではありません。各家庭で子供にあった人生をコーディネートしていかなくてはならないのです。 

そしてこの課題は多くの支援者を悩ませている問題でもあります。

具体的にそれはどのような子どもたちかと言うと

障害ではないのに勉強の苦手な子

数字と若干の専門用語を交えながらお話ししなくてはなりません。

私たちは日常的に「頭がいい」とか「勉強ができる」という言い回しをします。 

では 勉強の得意・不得意 はどのように決まるのでしょうか。

一般的には素質と本人の努力だと入っていいと思います。この記事を読んでいらっしゃる方の中にはもしかすると人間は皆同じ素質を持っていて全てが本人の努力次第で決められることだと信じている人もいるかもしれません。

しかし身長が高い人と低い人はその他の条件が同じであれば、バスケットをする上で高身長の方が有利に働くでしょうし、そのことを素質や才能の一つとして数えることができるでしょう。そして人の身長が遺伝によって大きく影響されており、努力によってはほぼ変えられないものであることは理解していただけると思います。

人間を形作る身長や容姿、肌の色などのように目に見えるものばかりが先天的に決まるわけではありません。目には見えない内側の機能も大きく遺伝などの先天的な要因に影響されています。そのことを前提に話を進めていきます。

素質と本人の努力は密接な関係があり、素質に恵まれれば勉強がわかるようになりやすく、面白く感じることも多くなり、 さらに努力しようという気になりやすいでしょう。

素質が似たようなものであればより努力した子供の方が能力が伸び、成績に反映されるのは当然です。

しかし素質がとぼしければ一生懸命努力してもあまり成果が現れず、勉強がつまらなくなり、 勉強への興味を保ちづらくなるかも知れません。

では一生懸命勉強をし続ければいつか他の子供達並みに勉強ができるようになるのでしょうか。

勉強すれば勉強する前より覚えることは増えるかもしれません。

しかし残念なことですが素質に恵まれなかった場合、その子供にとっては他の子供と同じ学習課題を処理することはいつまでたっても困難に感じられるでしょう。そして成長するにつれてみんなと同じような水準にまで能力が追いつくかと言うと、残念ですがそういうことは起こらないでしょう。 

サボっているわけではないのに勉強が苦手な子供は勉強が得意ではない大人になるのだと思ってください 。

人口比

私たちの知的な素質のことを一般的には知能指数という言葉で言い表しています。

身長に低いものから高いものまであるのが自然な現象であるのと同じように知能にも低いものから高いものまであります。

知能指数は平均が100に設定されており、最も人口が集中します。 知能指数と人口の割合は以下の表のようになっています。

このような釣鐘型を示す分布を正規分布と言います。

正規分布は自然界や人間の行動・性質など様々な現象に対してよく当てはまり、知能指数もこのような人口比で表すことができます(ただしダウン症などの障害によって発生する知的な障害はここで語る現象以外の出来事なので含まれません)。

100を前後に±10を平均としています。人口の50%がこの範囲に含まれます。これを超えた知能は平均より頭が良いと評価されるのです。

ではこの記事で対象としている知的に振るわないとはどのくらいの数字なのか。

どこからどこまでを勉強が苦手な人口として区切るかと言うと明確な規則はないのですが IQ 70から79までと考えても人口の6.7%程度、人によってはIQ85までと考えますがその場合で人口の14%前後は勉強の苦手な子供達がいることになります。

そうするとひとクラス35人程度と考えた場合、正規分布によれば各クラスに勉強の苦手な子が2人から5人程度いてもおかしくないことになります。 

一般的には70未満の場合知的障害としてみなされることが多くなります。知的障害は数字のみによって決まるのではなく、環境の中で適応的に生活できているかどうかということが判断の重要な材料になります。そのため数字だけが一人歩きしないように関係者は気をつけなくてはならないところです。

しかしやはり学習は困難でしょう。

先に知的障害時は特別支援学校に在校していることが多いだろうとの趣旨の話をしました。しかし知的障害が疑われる知能の子が通常のクラスに在籍していることも十分考えられます。

これらの子供達は昔から今と変わらない割合で存在していたと考えてよいでしょう。

ではなぜ今このような問題が表面化しつつあるのでしょうか。 

それは社会の移り変わりと深い関係があると考えられます。

産業構造の変化

以下のグラフに示される通り日本の産業構造は第一次産業が縮小し、第三次産業が伸びているのがわかります。

 厚生労働省「産業社会の変化と勤労者生活」より

念のため

第一次産業とは農業、漁業、林業、鉱業などの直接自然に関与する産業。

第二次産業とは第一次産業の原材料を加工して経済活動を行うもの。

第三次産業とは小売業、サービス業などの第一、二次に含まれない産業。

知的素養が比較的発達していなくても就業しやすいのは第一次産業や自営業ですが極めて職域を狭めていることがお判りでしょう。

次に自営業者の割合を見てみます。

自営業者の数もやはり年々減少の一途をたどっています。

知的に振るわない子が就労しやすいのは高度な知識や判断を必要とせずに一定の内容に熟練してこれを繰り返すような仕事です。

また家族に支えられながら自営業や家業を手伝うのも安定した就労を望めると思います。

しかしこれらの資料からわかるのはそうした職場が年々少なくなっていることです。

第一次産業の製品は外国を頼みするなどしているため国内の第一次産業がどんどん縮小し、就業が難しくなっています。

第二次産業でも体で覚える作業を身に着けて就労している人もいますがグラフからは第二次産業も縮小傾向にあることが読み取れます。

また自営業よりも企業や公務員としての労働の待遇を優遇したこともあって自営業を続けることが相対的に難しくなってきた背景もあり、自活への道が閉ざされている場合が多くなっている現状があります。

家族に支えられながらであれば問題なく仕事ができたであろう人でも雇われて働くのは難しいことがあります。

雇われた働き方は雇用する側は被雇用者をできるだけ活用したいと願いますから、次第に高度な判断をして多くのことができるように求めるため知的に振るわない人にとっては向いている職場とは言えないのです。

バブル経済の頃、人手が足りず就職活動は全くの売り手市場でしたがそのような中で仕事についていけず職場で不適応になり精神科を受診した方が誰も多々存在していました。

進学率の変化

昭和38年頃には高校への進学率は70%ほどでした。しかし現在では95%ほどの人口が高校に進学する現状があります。

国民意識の変化

社会が経済的に豊かになって行くと子供の学歴が高くなっていくことを望む世帯が増えていきます。自営業を営むよりも会社や公務員などでの勤め人の人口の割合が増えていきますし第一次産業に就くことを軽視しがちになるように思います。

経済的に豊かになり社会の変化の中で総中流時代という意識を形成するに至って人々が考える生活のイメージも変わっていきます。

このような変化の中で子供たちに期待する身に付けるべき学力の水準は昔に比べて当然引き上げられることになり、そうすると学習についていけない子供たちの存在が必然的に目立つようになるのです。人の能力は社会の都合によって伸びたりはしないからです。

普通に努力していれば中流生活を送っていくものと考えるともなしに信じていたところに、知的な要因によってそれが難しくなるかもしれないと考えると、保護者にとってはかなりの不安になると考えられます。 

この不安は子どもの知的な振るわなさを認めたがらないことに繋がるかもしれません 。

知的な振るわなさを認めない理由には以下のようです。

子供の知的な振るわなさを認めたがらない理由

自分の子供の知的能力が低い水準であることを認めるのは辛いことだと思います。

その事実があることを無視される方も珍しくありません。関係機関の人間が子供の将来のことを考えて遠回しに知能を測る検査をおすすめしたり知的な遅れをほのめかすと怒り出したりされる方もいます。

親の劣等感

子供が勉強ができないということが親のしつけや親の素質と結びつけて受け取ってしまう人もいるかもしれません。自分が責められたかのように感じる方はいらっしゃいます。

子供と過ごす未来が思い描いていたものとは違ったものになってしまうことへの怒りや悲しみであるかもしれません。それは一種の喪失体験といってよいものです。

勉強ができると安泰という迷信

なるべく高学歴を目指すに越したことはない。なぜなら勉強ができないと将来大変な仕事につくことになるから、と思っている方は多いのではないでしょうか。一種の安定志向が高学歴で勤め人になることを考えさせるのではないかと思います。

しかし全ての子供が努力次第でどうにかなることばかりではないことやわが子がその中に含まれる可能性などは普通考えることなどないだろうと思います。

そのため想像していなかった事態に職面したときにこれを否認し、問題のないことを証明しようと余計に勉強に取り組ませようとする方もいます。

学校を選ばなければ入学も卒業もできるでしょう。しかし勉強に対して劣等感を感じなくてはならない人生の期間が延長されたことも事実なのです。

大人は良かれと思って子供たちにより高い学歴をつけさせてあげたいと願うのでしょう。しかし実態に合わないほどの高い下駄をはかせてあげることが本当に本人たちのためになっているのかは疑問です。

子供の不利益を恐れること

子供が知的に振るわないことを認めることが 何かの烙印を押されたかのように感じてしまい、差別の対象となるのではないか、将来の仕事や結婚に差し支えるのではないか、と子供を不憫に思ったり将来に不安を感じる方もいるかもしれません。

知的に振るわない子を支える

親は自分が傷つくことを恐れて子供の様々な可能性を取り上げるべきではありません。

現実を受け入れて子供が必要な支援に結びつく努力をすることが親の責任です。

そのためにどのようなことを念頭に置いておくべきかを考えてみたいと思います。

親が正確な認識を持つ

障害者ではない彼らに一貫したサポートを行う機関は実際的には存在しないと考えて良いでしょう。ということは人生の要所要所で必要な工夫を家庭でコーディネートしていかなくてはならないのです。

つまりこれはクラスでの学習だけが問題なのではありません。その問題があることがわかった時点で大人になった時にどんな生活をしているか、の現実的なイメージをお持ち、そこまでの一貫した支援を組み立てていくのだ、 という認識を持った方が良いと思うのです。

子供の自尊心を保つ

知的には振るわない子でもクラスの中で自分が他の人たちよりも勉強ができないということはよく分かっているものです。 その自尊心は日々傷ついていることも珍しくありません。 定員に達していない高校では知的に振るわない子でも入学できてしまうような場所が地域にはいくつかあるものですが、教育期間が長くなるということは劣等感を感じながら生活する期間がそれだけ引き伸ばされるということでもあります。

強い劣等感を長年感じながら生活しているとおそらく自信の乏しい子に育つでしょう。これは 一つのデメリットです。

特別支援教育を受けたり、そのことで差別を受けることの方が劣等感の原因になるのでは、そんな風に考える人たちもいると思います。

直接比較できるデータはありませんが、特別支援教育の中では自分と知的な水準が似通った仲間ができます。特別支援教育に在籍することでそんなにひどく傷つけられる経験というのも学校がまともに機能していれば思っているほどはないと思います。

しかし通常学級にいた場合、みんなに比べて勉強が分からない、という思いはずっとしなくてはなりませんし、思春期に入り友達関係の持ち方が変わり、親友を見つけるようになるとそのような相手を見つけることが極めて困難な現実に向き合わざるを得なくなります。

なぜならば思春期の友人関係とは相手の価値観に互いに惹かれあって関係を結ぶようになるものですが、知的な水準が違いすぎると物事を認識する能力の違いとしても現れるため、関係を結ぶ上で魅力的な存在であるとは感じてもらえないからです。

また大人になってから 元クラスメイトだったからといってそれほど大きな援助に繋がるとも考えづらいものがあります。

子供の長所を見つけ、絶えず刺激する

素敵な問題の有無に関わらず子育てに関わる人には是非して欲しいことですが、子供にどんな長所があるのか、どんな素敵な 資質が備わっているのか、どんな好ましい行動が観察されるのか、 性格のどんなところが 魅力的なのか、絶えずこれらのことを探してそのことをとても喜ばしいことなんだと感じて欲しいのです。

テストで100点を取ったりかけっこで一等賞になったりすることだけが価値のあることではありません。

普段見逃されてしまいがちな些細なことの中に、もしくは失敗したことの中にすら観察する目さえ備えれば見るべきものは必ずあります。

絶えずそれを本人にフィードバックすることで自分に備わっている社会と協調して生きていける資質の備わっていることに気がついて欲しいのです。

勉強以外の特技を意識して育ててあげることも良いでしょう。勉強は苦手だが自分にはこういう取り柄があるのだと拠り所にしながら成長するのも良い事だと思います。 

人と協力して生きることを教える

人間の目には自分が自分が得をしたり楽をして過ごすことにとかく注意が向きがちです。しかし適切な教育を受けることにより自分の欲求よりも仲間の必要に応じて振る舞うことが人にとって本当に適切な振る舞いであるのだということを学んでいきます。

このことを積極的に伝えたいと思うのです。

自分の利益にばかり関心が集中している人間にはなかなか社会に居場所を得ることができません。人のことを思いやり人と協力する姿勢がある人間には周りからの協力を得られ、信頼を勝ち取り、彼らのために働くことのできる自分の能力に自信を感じながら生活できるでしょう。

そのとき人は自分の居場所を手に入れ社会の中にくつろいでいられるようになるのです。 

子供の状況を正確に把握する

子供の学力不振が知的な振るわなさから来ることなのか、それとも何らかの理由で勉強をしたくないからなのか具体的に確かめることから始めるのが良いでしょう。

WISC-Ⅳという知能検査があります。子供の知能指数だけではなく、どのような種類の知的な能力が強く弱いかを調べることで、子どもの知的な能力の特徴を知ることができます。知的な振るわなさをもつ子供が障害に該当するか否かはこの検査からだけでは決まるものではありません。しかし知的に振るわないという実態はこの検査から知ることができます。

検査の目的は勉強が苦手なことを確かめるというよりは、本人の比較的得意な能力は何か、を見つけるためだと思うと良いかもしれません。

知能検査は4種類の知的な能力を想定しています。比較的得意な能力を知ることで他の弱さをどうカバーするか、この力を発揮できる仕事はどのような種類の仕事か、などと考える資料になります。

この検査を受けられる場所は教育センター、児童相談、精神科や一部小児科などの医療機関が考えられます。

検査者は往々にして親の感情に配慮して遠回しな表現を好むことが一般的ですが表現の柔らかさに安心するのではなく、かといって過度な悲観をするのではなく、実態を正確に理解できるようにこちらからも積極的に質問させてもらうと良いでしょう。 

本人に向いている進路を設計する

知的な障害児とでは違って福祉制度の対象とはなりません。しかしクラスの他の子達と同じペースで進路を考えるのでは、情報を集めたり考えをまとめるのに時間が足りないだろうと思います。個性的な人生を送る上では多くの人達が準備するタイミングで準備を開始するのは得策ではないからです。

進学を望むならば本人の学力でも進むことができる高校を中学校で紹介してもらうことはできます。しかし学校では高卒後のことまで考えてアドバイスしてくれるわけではありません。

どのような学校や職業が向いているかを各家庭で考えなくてはならないのです。

勿論子供との対話をしながらです。親のプランを押し付けるものでは決してありません。

勉強や仕事との付き合い方を検討する

知能検査で知的に振るわない子であることが確認された場合、それは勉強が向いていない子供であるということです。

学校は子供を卒業させたり現在の成績で行けるところを一緒に考えてはくれますが大人になるまでの一貫した人生の設計を一緒に考える能力は無いと思った方が良いです。それをするのは各家庭の役割だと 思いましょう。

現在の価値観ではとりあえず高校は卒業する、 と考えている人が圧倒的に多いでしょう。

しかし進学先で学んだ内容はほとんど身にならないかもしれません。卒業証書のためだから良いのだという考え方もあるでしょう。しかし他のクラスメートと同じように卒業後に就職した先で適応的に振る舞える保証はどこにもありません。

漫然と進学を志すのではなく、卒業した先の行き場所や就職先への準備として進学が本当に必要なのかどうかを考えてみるのも良いかもしれません。

進学は漫然とするものではなく、将来何になるか、目標に対して必要な手段として進学をするのが本来の進路の定め方なのです。

大人に進学、被雇用者という選択肢しかない場合、子供には他にどんな可能性があるのかを自力で発見するのは社会経験の不足していることからも大変難しいことです。ですから大人は幅広い価値観で将来を見渡した方が良いのです。

少なくなったとは言え第一次、二次産業は日本でも存在しています。しかしその可能性を親が視野の外に置いておいたのでは子供は周囲の子供たちの雰囲気からも影響を受けてその可能性に気が付くことはないでしょう。

手に技術を身につける仕事であれば中卒で始めるのも有利なことは多いかもしれません。

一般的な進路から外れることには不安が伴うかもしれません。しかしここは親の好みや世間の動きではなく、子どもに本当に向いていることは何かを考えるところでしょう 

大人になった時のイメージに照準を合わせながら進路を考えることです。学歴や 職業的な偏見があるのであれば捨てた方が良いです 

知的に振るわない子は第三次産業のような書類相手に仕事をする、顧客を相手に高度なサービスを提供するなどの仕事はきっと向いていないと思います。しかし勤め人に向いていないからと言って世の中に仕事がないわけではありません。

たとえ収入が望めなくても継続して長期間取り組めるどんな仕事があるのか、などの情報収集をする必要があると思います。

例えば建築現場の職人の中には自宅の住所をちゃんと書くこともおぼつかない人が時折見受けられるようですが、彼らも自分の専門にしている仕事についてはきっちりとこなしているのです。

サラリーマンしか経験のない保護者が子供が肉体労働者になったり職人になることには不安を感じることがあるかもしれません。しかしその不安は親の不安であって子供の人生のマイナス因子ではないことを覚えておきましょう。

職業選択を支援する

実家が自営業であり、本人の能力で経営していくことが見込まれる場合、将来の職業の選択に困ることはないかもしれません。 地域の付き合いも重要になるかもしれません。このような場合は親族の支援があれば生活していくこともできるでしょうし、メリットとデメリットを計算する現実的な理由になるかもしれません。

しかしどこかで雇用されることを前提に考えるのであれば特別支援よりも地域の絆を優先して普通学級に在籍することのメリットは随分と小さくなるのではないかと思います。

勉強がとても苦手だった子供は大人になってからのオフィスワークについていくこともとても苦手になることが多いと予想されます。

日本のデータは存在しないためアメリカのデータから引用したものを以下に掲載します。

1987年のレイノルズらのアメリカでの職業集団とIQの関係です。

職業集団              全検査IQの平均

専門的技術的職業(医師、弁護士)    112.4

経営者、役員(事務職員、販売員)    103,6

熟練労働者(職人、職長)        100.7

半熟練労働者(サービス業、農業)    92.3

非熟練労働者(肉体労働者、農場労働者) 87.1

(検査はWAIS-Rを使用。母集団は20歳から54歳まで)

この表は必ずしも限界を示しているものではありませんが目安となるものではあります。

知的な能力の程度に従ってつける職業の内容はある程度絞り込まれるという現実があることは理解できるのではないでしょうか。成績が良くない人が医師や弁護士になれるとは思わないでしょう。しかしそれは医師や弁護士より難しいとは思われない職業にも当てはまるのです。

非熟練工や熟練工であれば本人の能力や興味との兼ね合いで継続して就業することができるかもしれません。体力や運動神経などの要因も考慮しなくてはいけないポイントになります。知的に振るわない子は体の使い方も不器用な人が多いものですが、中にはスポーツの得意な人も います。

子供の知的な能力に疑問を感じるだけの材料があるにも関わらずそれを見ないふりをすることは科学的な態度ではありませんし、何より私的な弱点がが存在した場合に本当に子供が必要な支援を排除することにつながるのです。

専門家を探しアドバイスや支援を受ける

知的な振るわなさが障害に該当するほどの低さでなければ、特別支援学校や知的障害者のための福祉などの援助を受けることができません。

児童相談所では子供の様々な相談に乗ってはくれますが、現状児童虐待の問題の対応に追われ少ない職員で目が回る忙しさのようです。そのような中で継続した安定的対応は実質期待できないと考えます

人生の長いスパンを見据えた視点から一貫した方針に基づくアドバイスしてくれる場所ありません。

一箇所頼りになる相談機関を見つければずっとそこで相談できると言うわけにはいかないのです。

したがって親は彼らの知的な能力をどこで査定したらよいのか、進学の相談をどこにしたら良いのか、仕事の適性や見つけ方をどのようにしたらよいのか、という一々のことについてそれぞれ別々の専門性を持っている場所を見つけて相談しに行かなくてはならないかもしれません。

担任の先生にできること

子供の自尊心を保つ、子供の長所を見つけたいず刺激する、人と協力して生活することを教える、については既に書いたこことですが、勿論担任も同様です。

しかし担任の先生には担任であるからこそできることがあります。

個人差のあるところですから人によっても違うところですが、基本的に学級担任は一国一城の主として自分のクラスを学級経営しているようなものです。学級担任の方針や姿勢の違いはクラスの雰囲気に大きな影響を与えます。

考え方を見直す

担任の重要な仕事の一つは子供の知的な能力をできるだけ成長させることです。

このことが具体的に現場でどのように受け止められているかと言うと担任は結果に責任がある、つまり子供の頭を良くすることは自分の責任である、だから自分は子供の頭を良くしなくてはならない、 と暗黙裡に理解されているのではないかと思います。

しかしクラスにはいろんな子供がいます。勉強の得意な子もいれば苦手な子もいます。真面目な担任が役割に専念して強く責任を感じると指導に従わない子供達に感情が刺激されることも増えてきます。 

まず大人には最終的な子供の身に起こる結果を左右したり責任を取る能力はないのだということを知りましょう。私たちは影響を与えることができるだけなのです。最終的に子供がどのような大人になるかは、無意識も含めた子供の主体性による決断によって決まります。

大人が努力すべきなのは私たちが影響因として最善である努力をすることではないかと思います。 

したがって私たちがすべき子供への働きかけ方は無理やり子供達に何かを強制するのではなく、老練なセールスマンとしておすすめ上手になることではないかと思います。

担任がするべきことは子供のために自分のベストセールスをすることであり、 無理やり子供を目標に近づけることではないのです。

目標を見直す

学校は子供たちが勉強や仲間との付き合い方や社会の様々なことを学んでいく場です。そこでは「すべきこと、してはならないこと」を「したいこと、したくないこと」よりも優先することを学びます。

しかし「すべきこと、してはならないこと」を学ばせることを優先するあまり、その手段が子供を叱責したり、恥をかかせて面目をつぶしたり、子供の間の競争を煽って優劣をつけることだったり、という スパルタな学級経営をする先生が見受けられます。 

そうするとそれは本来良い目的のために行われている指導であったはずが残念なことにクラスの雰囲気を殺伐したものに作り変えてしまう効果を発揮してしまいます。私たちは目標のことを強く意識するあまり、そのために用いる手段にも大きな作用があることにしばしば気がつきません。

少なくとも公立学校であるならば勉強を優先することに先鋭化するのではなくて社会でやっていくために必要な能力を身に付けることを目標にした学級経営を行った方が良いでしょう。既に述べたように子供の能力は幅広くいろんな段階の子がいるのですから 彼らにとって最も適正な水準に学級経営を合わせるべきではないでしょうか。 

教育は全人的陶冶を目標にして行われるものとされているはずです。しかし現在の学校教育はあまりに教科教育にのみ偏っています。

手段を見直す

子供の行動の変容を促すために大人がどのような手段を用いているかと言うと、 怒ったり怒鳴ったり恥をかかせたり、と言う方法がしばしば見られます。

最初のうちは効果があるかもしれませんが、しばしば元気な子供が率先して逆らったりひいては学級崩壊に繋がってしまう場合も珍しくありません。

ここで読み返して欲しいのが上述した 、子供の自尊心を保つ、子供の長所を見つけたいず刺激する、人と協力して生活することを教える、です。

またその前提として先生が子供の一人一人を心から尊敬できるように 心がけましょう。 口先の技術だけで何とかしようとしても、絶対に馬脚が現れるものです。

クラス全体を勇気づける

多くの心理学ではクラスの中で問題を抱えている子をいかにして支援するかを考えます。 しかしアドラー心理学ではクラスという集団をどのように支援するかを考えるのです。クラスの中で辛い思いをしている子供がいるということはそれはクラス全体が健全とは言い難い状態にあると考えるのです。

クラス全体がいかにクラスメイトと協力し合い助け合って暮らす姿勢を学んでもらうか、ということを目標に様々な工夫をすることができます。

困っている生徒をいかにして支援するか、と考えるのは教師の重要な役割ですが、困っている生徒を他のクラスメイトが支援し合う環境があればそれは当然担任個人が子供を支援する以上の大きな力となることは間違いありません。 そのようなクラスをいかにして主催するか、という観点から学級経営を行うのです。その具体的な方法は機会があったら別の記事にしたいと思います。

保護者を勇気づける

まず意識しておいた方が良いと思うのは、 自分が楽になるためにではなく、子供のための最善を図る目的で処遇を考えるということです。

その上で子供に関心が集中するあまり親も悩んでいるのだということを忘れないようにしましょう。

子供の学力の定着を計るために苦手な教科を特別支援学級会の通級で補うという提案は当然あり得ます。

また子供の知能が明らかになった方が支援する上で役に立つのであれば教育センターなどでの学力の不振を理由とした相談を受け付けてもらえることを情報提供しても良いかもしれません。

知的障害が明らかなこの場合、それを一にする保護者にやんわりと事実を受け入れられるように勇気づけ、知的な評価が受けられるように相談機関を勧めるのは子供の処遇を考える上で大きな意味があることですが、障害未満と考えられる知的に振るわない子供の場合、積極的にそれらを推し進めても社会資源を利用した積極的な資源が存在しません。

子供が勉強が苦手なだけ、と思ってそれほど気にしていない親もいれば、子供の学力の

苦手さを気に病んでいるような保護者も当然います。

親のニーズを汲み取りながら状況によってお勧めしたりしなかったりということあるでしょう。 

親が子供の育て方に自信をなくしたり、子供のネガティブな側面にばかり注目が向いたりすることもあるかもしれません。

担任は親が子供のポジティブな側面に気がつけるように、 関心が向くように心がけるのが良いと思います。具体的には学級で観察される子供の良い側面、成長したことなどの様々な長所に敏感になり、気が付いたことを積極的に親に伝えていくのが良いでしょう。 

スクールカウンセラーと連携する

令和2年3月現在小学校でスクールカウンセラーが常駐している自治体は関東では東京都のみになると思います。

それ以外の自治体では特にスクールカウンセラーの設置の必要があると思われる少数の小学校にのみ配置されています。

自分の学校にスクールカウンセラーがいる場合は子供の様子について相談してみるのも良いでしょう。

ただしスクールカウンセラーはその質に大きくばらつきがあることを覚えておいた方が良いかもしれません。

環境への不適応から生じる望ましくない影響

アドラー心理学では小さな劣等感は人を成長させるバネになりえますが、大きすぎる劣等感は人を人生の無益な側面で行動する方向へと教えることがあると考えます。

勉強に向かない子供をずっと通常級に置いたからといって必ずしも不満足な結果が待っているとは限らないでしょう。しかしより困難な状況に子供を置いておくと言えう事実は間違いなく存在すると思うのです。

以下のような行動が必ず起こるとは限りませんが、もし悪い方へ悪い方へと状況が展開した時には以下のような傾向に近づいていく可能性が高まることがあり得るということは承知しておいた方が良いと思います。

またこれは知的荷札はないことからくる問題行動というわけではありません。知的に振るわない子供と周りの大人を含む環境との相互作用の中で形作られてくるものだと考えて頂ければ良いと思います。

つまり環境の側にもできることは多いのだということだと思って頂くと良いでしょう。

学力不振

自分の能力に合った課題に取り組むことができず、勉強から置いていかれる中、 クラスの他の子供達はどんどん自分のできない課題についていくことができるという環境になっていくかもしれません。そうするとたとえ周りが親切な子供達であっても自尊心が傷ついて行きますし、 クラスの雰囲気が良くないものであれば積極的に勉強のできない子を傷つけるような環境となってしまうかもしれません。

不適切な原因帰属

物事の原因を何に求めるか、という判断を原因帰属と言います。物事がうまくいかないと人間はその理由を考え始めるという特徴があります。その際自分自身に原因があると思うのがあまりに辛いと自分以外のものもとや誰かのせいにすることがありえますし、 そのような態度が長く続くと人のせいにばかりするような傾向が発達するかもしれません。

また原因を自分自身に求めるとしても自分自身の努力の不足に求める場合もあれば、自分自身のやり方の問題として受け止めることもあるでしょう、 しかし自分の性格や能力に原因帰属した場合、有効な解決策が見いだせない時に人は自分自身を評価することができず、強く劣等感を募らせていくことでしょう。

クラスへの不適応行動

クラスの中で問題行動を起こしている子供は例外なく劣等感があると考えて構わないと思います。劣等感が強すぎる場合、おとなしい子は不登校などの人に影響を及ばさない非社会的な方向へと傾いていくかもしれません。

元気な子はクラスで先生や他の子供の勉強の邪魔になるような活動を始めるかもしれません。

劣等感の原因は様々で必ずしも勉強ができないことによるものではないかもしれません。しかし子供の振る舞いがクラスに良くない影響を及ぼすものであり、なおかつそれに先立つ学習の困難さがあったのであれば子供は学習で苦労した経験があるのではないかと振り返ってみるのは役に立つかもしれません。

社会性の発達への影響

児童期まではあまり問題にならないかもしれませんが、思春期以降になると親しい友達が作りづらくなり、集団にうまく溶け込めていないと言う感覚を持つことがあるかもしれません。

触法行為や犯罪との親和性の高まり

少年院や刑務所で処遇されている人たちの多くに子供の頃、知的に振るわなかったという人たちが多くいると言われています。

例えば安部譲二の「堀の中の懲りない面々」や 宮口幸治の「ケーキの切れない非行少年たたち」などでも刑務所、少年院で犯罪や触法行為を犯した大人や少年の中に知的な低さや認知機能の問題がある者たちが多くいることに言及しています。

これは知的な振るわなさが犯罪に結びつくということではありません。

しかし知的に振るわないことで勉強がうまくいかない、集団に上手く溶け込めない、といった理由から大人が望んでいる 進路からこぼれ落ち、虞犯を繰り返すような仲間と付き合い始めることは多々あることです。

強すぎる劣等感は人が建設的な方法で生きていく自信を奪い、 自分や時に他者の人生を大きく損なう誘因となります。

その延長で触法行為、長じては犯罪に親和性の高いことをするリスクが高くなるのは事実だと思います。

格差の広がりを加速する社会

ここまでの記事の中で子供が知的な振るわなさが不適応と強く関係していることについて述べてきました。そして強すぎる劣等感がいかに自尊心を傷つけ人生を肯定的に評価することを難しくするのか、ということについて触れてきました。

しかし人が劣等感を強めるかどうかと実際に平均的なポジションから劣っているかとは本来直接的な因果関係はありません。

自分が醜いと悩んでいる美人もいますし、 体に障害があるにも関わらず豊かな交友関係を築き、友達が作れないと悩む健常者よりもはるかに人付き合いを楽しんでいる人たちもいます。

知的に振るわないどころか知的な障害が存在してなおかつ幸せに暮らしている人だっているに違いありません。

わかりやすい例では体に障害があることは運動能力という点で評価するならば明らかに器官に劣等性が存在することになります。 しかし 自分に障害があることで人生の可能性を自ら狭めることもできますし、障害があることを乗り越えて様々なことに挑戦する人もいます。その違いは客観的に障害が存在するか否かによるのではなく、自分の障害者としての人生をどのように受け止めるかという姿勢と深く関わりがあります。

しかし周りからのフィードバックが否定的なものばかりであれば、そんな中で自尊心を育てるのは困難になることも当然予想されることです。

経済的な豊かさを追い求めるあまり私たちの仕事は生活を支える仲間との共同作業から物欲を満たすための無機質な経済活動家と徐々に変貌を遂げているように思われてなりません。

そのような中では能力の査定がより一層強く行われるようになり、生産性の観点から能率の高いものと低いものとの区別がより明確になされるようになります。

そして効率化の名のもとに能力の高いものはより生産性を上げることを迫られ能力の低いものは活躍の場を狭められていきます。

このような経済活動のあり方は必然的に人々に強く劣等感を感じさせ、 落ちこぼれることへの恐怖によって人々をより一層の経済活動へと駆り立てて行くのです。

強すぎる劣等感を感じるものを多く生み出す社会構造はそこからドロップアウトするものを多く生み出す社会構造でもあります。ドロップアウトしたものの中から一定の割合で犯罪に手を染めるものが現れるのは想像に難くありません。

経済効率を追求すればするほど人々の格差を拡大し、底辺にいる人の劣等感を増大させ 社会を豊かではあっても殺伐とした方向へと動かしていきます。

果たしてこれは本当に幸せな社会の姿なのでしょうか。 

みんながやりがいを持って暮らせる社会へ

特に将来輝かしく感じられる目標もない中で、ただ成績を上げることが評価される環境に長時間置かれることは知的な能力の高低にかかわらず、子供達にとって幸せなことではありません。

それは知的な振るわなさ のある子供達だけではなく、 現代に生きる子どもたち全てにとって共通したこの社会の息苦しさです.

競争社会の中で生きていくには仕方がない、 という人もいるでしょう。しかしなぜそこまで競争しなくてはいけないのでしょうか。語弊を恐れずに断言してしまえばそれはお金のためなのではないでしょうか。 私たちはそこまでたくさんお金がなくては生活できない存在になってしまったのでしょうか。

経済的に海外旅行に行けるほど豊かにならなくても家族が協力し合って生活し、知的に振るわない子供達にも役に立つ場所がたくさんあった時代の方が人々は幸せに暮らせたのではないかという気がしています。

社会が豊かになり暮らし向きが楽になって物質的な生活に恵まれるようになると人々はより経済的な潤いを求めて経済活動を加速させていくように思われます。

更なる豊かさを求める中で私たちは働くことの意義が「家族を支えるため」というところから「もっともっと快適な生活をするために」にすり替わってきたのではないかと思います。 

やがて額に汗して働くよりは徐々に頭を使った身体的には楽な仕事がスマートで価値の高いことに思われてくるのではないでしょうか。そうすると第一次産業が衰えて第二次産業第三次産業が占める割合を増やしてくることでしょう。

そして工業製品などを海外に売るために、その対価として第一次産業の製品は海外からの輸入に頼らざるを得なくなるでしょう。

そして第一次産業が縮小していくと徐々に知的に振るわない子供たちの活躍できる場所が縮小し、そのような場所に外国人を迎え入れるようになってくるようです。

しかしこのような現象が加速した時にそこに残された日本の社会は本当に私たちにとって住み良い場所なのでしょうか。

一度素に戻って考えてみた方が良いことなのではないかと思われてなりません。

社会の意識改革へ向けて

このような私の意見はもしかすると一部の人には差別的と受け取られるかもしれません。その可能性はよく承知しています。

しかしこれを差別と思う人はいくつかのことを失念しているのではないかと思うのです。

私たちは日本の法律(あえて人権とはいません)に保証された平等な権利を持つ存在です。

私たちに与えられている平等とは機会の平等です。待遇の平等ではありません。

私たちは与えられた教育を受ける権利や職業選択の自由があります。 そしてそれは平等に保障されていますが、それをどこまで活用できるかは一人一人の努力と素質に関わってきます。

努力はともかく素質の面では私達は不公平であるかもしれません。しかし自然が、または神様がでも構いませんが私たちには与えた運命に不平を言ってもどうしようもないことです。

私たちが自分の素質を努力によって伸ばした結果、どんな成果が手に入るかは一人一人違うのが当たり前なのです。

もし私たちの努力にかかわらず同じ待遇が保証されてなければならない、と考えるのであればそれは悪平等と言わざるを得ません。今時の共産主義国家でもそんなことはありえません。

このような事実を無視して待遇の平等を訴えるのは、自分の不満を社会になすりつけて人生を自分で切り開く代わりに不平を鳴らしている姿に思われます。

何より第一次産業をはじめ肉体労働をしている人達を差別していることに他ならないのではないかと思うのです。彼らは社会に必要な存在であることは他の職種同様です。そうでなければこの社会が成り立ちません。 彼らの存在と働きに日々感謝すべきです。もちろん複雑で専門性の高い仕事をしている人たちにも感謝の念を抱くべきであることに変わりはありません。

私たちは外国人に日本の社会の矛盾を押し付けて見ないふりをし、ただひたすら経済的な豊かさを追い求めるのではなく、日本が日本人の住む国として皆が持てる力に応じて協力することでみんなに良い場所のある社会をつくることが現在の社会の最も大きな課題なのではないでしょうか。