心理相談
心理学とは人の心の動きと行動の法則に迫ろうとする学問である。様々な心理学が存在しているがその中でも人間の抱える悩みや問題などの困難な出来事の改善を目的としている分野を臨床心理学と呼んでいる。
臨床心理学は苦しむ人々を十分な手段がない中でも何とか処遇しようという歴史と工夫の中から生まれてきたものである。そのための重要な手段として会話を通じて影響を与える工夫が重ねられてきた。それは大きくカウンセリングとサイコセラピーの二つに分けられている。
しかしカウンセリングとサイコセラピーの区別は全ての心理学者が合意する基準は今のところ存在していない。
アメリカで一般的な基準はカウンセリングを扱う心理学はカウンセリング心理学と呼ばれていて「人間の健康なパーソナリティを対象として心理的な安定と成長を促す援助をする」と定義されている。人間の行動的問題や心理的問題を扱う領域は臨床心理学と呼ばれ「心理的、法的問題に介入することによって問題解決をはかる理論や技法を扱う心理学」として区別される。
この定義からも伺えるように精神的な不調を取り扱うのが心理療法であり健康な対象の相談にあずかるのがカウンセリングと考えられていることが多い。
ロジャース派の行っているクライアント中心療法はカウンセリングの技術であるが心理療法ではなく、フロイト派の精神分析と呼ばれる技法は心理療法ではあるが、カウンセリングの技法ではない。このことは概ね心理学者の合意が得られるだろう。
アドラー心理学の定義ではカウンセリングとは対人関係を取り扱うものであり、心理療法は個人の精神運動の法則を扱うものと定義している。これは実用的な定義であると思うが臨床心理学の世界での通説ではない。
ここではカウンセリングとサイコセラピーの区別をする際にはアドラー派の定義に従い、二つを区別せずに表現する際には心理相談という単語を使うことにしたいと思う。
精神医療の歴史
カウンセリングは比較的近年になってから司法、産業、教育の分野で 対象となる人々の能力の測定と適性などへの関心が高まったことから始まり、その由来は 明確であるが心理療法は その 起原を遥か大昔にまで遡ることができる。それは苦しむ人々を支えようとする様々な活動とともにあった。臨床心理学と医学が区別されるようになったのはごく最近のことである。ここでは心理支援の歴史を語る上で精神医療の歴史を振り返ることによってその発展の経緯を述べることとする。
古代医学における精神現象の理解
原始より呪術師や占い師、祈祷師 という存在が様々な問題の解決のために 神秘的な技を用いて対応してきたと思われる。これは現在もアフリカや南米などで文明と距離を置いて生活している民族の中で観察されることからも推察できるだろう。
彼らの扱う問題は気象や豊漁祈願などの社会的安定を維持する目的のものや、個人の心身の問題、スピリチュアルな問題、信仰世界の問題をも扱っていた。
文献に残る最初の精神障害の記録と思われるのは紀元前1000年頃成立したアタルヴァ・ヴェーダと言われる。また人間の精神活動についての考察が記録されているのは紀元前のギリシアである。
ヒポクラテスは人間の理性の座は脳であると考えたが、情動や行動が影響を受けるのは血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁の4種類の体液 の影響であると考え、四体液説と称した。精神障害を器質的な異常と結びつけて考えたという意味では現代精神医学に通じる。例えばメランコリーという言葉は黒胆汁、ヒステリーという言葉は子宮を意味するギリシャ語由来である。この理論を発展させたガレノスはそこからさらに人間を四つの気質をに分類している。
プラトンは合理的な精神は脳が司り、非合理的な精神の働きは胸にあると考えていた。アリストテレスはあらゆる感覚や思考の働きの中心は心臓にあり、脳は心臓からくる熱を圧縮する場所であると考えた。アレタイオスは病を急性疾患と慢性疾患に区別したが慢性疾患の中にはてんかん、メランコリア、マニアといった精神的な症状に注目した診断名を挙げている。
このように 古代医学の時代には 精神機能を司る器質的な説明を思弁に頼らざるを得なかったが、当時の限界の範囲内で科学的な論考を行おうとしたと言える。このように精神障害は病気とみなされ身体的治療と共に作業やレクリエーションなどを応用した治療的な働きかけが行われていたとみられる。
中世ヨーロッパ精神障害者の扱い
ヨーロッパではカトリックが力を得るに従い、ギリシャ由来の科学的な知識が失われ、文明的には後退した暗黒の中世と呼ばれる時代を迎える。14世紀のイタリアで再生を意味するルネッサンスが起こったことは学校の教科書でも学ぶことだが、その実態は十字軍が イスラムを侵略した際に持ち帰ったアラビア語に訳されて保存されていたギリシアの古代知識を再発見したことに由来する。
それによりヨーロッパの科学は長い停滞から 抜け出し再び発展を始めることとなる。ちなみにギリシア・ローマの医学を伝えていたアラビアでは10世紀頃のバグダッドの病院にすでに精神科が存在したと言われている。この頃のイスラム文化圏はヨーロッパよりもはるかに文明先進地帯であったが、弱者の処遇に関してもより先進的な 扱いをしていたようである。 コーランの中にも「(精神障害者に)衣食を与え親切に言葉優しく話しかけなさい」という文言があると言う。
14世紀のロンドンの病院には精神障害者が隔離され手錠、足枷、鎖などで拘束されており、 祭日には移動動物園のように見世物としていたらしい。
18世紀ウィーンのガルは骨相学を唱え頭蓋骨は脳の形状から影響を受けた形をしているため、その形を計測することで人間の精神の機能について推測できると考えた。現代から見ると誤りであるが精神活動に暗黒時代以後のヨーロッパ人による科学的な説明を施そうとする試みと言ってよい。
スコットランドのカレンはあらゆる疾患を熱病、神経病、悪液質、局所疾患の四つに分類した。この神経病という命名は DSM が登場するまで長く使われた神経症の語源となる。
体系的に精神の機能や障害を理解しようとする動きもあったがキリスト教の影響は深く、魔女狩りでは多くの精神病患者もその犠牲者となった。悪魔や霊に影響されて精神に異常をきたすと考えることを鬼神論というが、 スイスにおいて最後に魔女の火あぶりになったのは18世紀のことであり比較的最近までその影響力が及んでいたことが分かる。しかし宗教的な立場からの精神障害の処遇はこのように陰惨な歴史のみではない。
ヨハン・ワイヤーは精神障害者を魔女として取り扱うことに異を唱え、正気を失っている人物を医学の対象とするべきであると強く訴えた。
ベルギーのフランドル地方のゲールという街でも精神障害者は保護されている。この町の守護聖人は精神病者の守護聖人である。そのため教会での治療の儀式に参加するため精神病者を伴った巡礼者が多く訪れ、病人部屋に寝泊まりするという伝統が15世紀には始まっていたと見られる。巡礼者が増えると精神障害者を宿泊させる施設が足りず、教会周辺の民家に一時預かりすることが一般化した。これにより精神病者の家庭看護の伝統が受け継がれ、17世紀になって巡礼が下火となっても都市の施設で受け入れ難くなった精神障害者が大勢この地方の民家に預けられている。19世紀にはこの町の精神障害者の処遇の文化を精神医療共同体とみなし、ひとつの精神医療システムとして捉え直して現在に至っている。
精神医学の先駆け
18世紀後半より精神障害は宗教的な救済や迫害の対象としてではなく、 科学的な対象としてでもなく、治療を求める患者として処遇しなければならないと言う思想が広がり始める。
しかしながら明確な診断方法も治療方法も確立していないため、患者の精神に影響を与えるために現在から考えると非常に奇矯な方法が採用されていたと言える。
例えば回転椅子療法という高速で回転するに椅子に患者を縛り付けたり、ヘビの穴療法やびっくり橋療法など感覚器官や精神に強く働きかけることで何らかの影響を与えようとした。しかしその結果は苦痛を与えることはあってもさしたる効果の期待できるはずもなく、新興宗教のサイエントロジー教会などは精神医学のこのような暗部を取り出して現在でも盛んに攻撃に利用している。
このような中フランス革命下のパリで精神科医であったフィリップ・ピネルは1793年精神科で鎖につながれていた患者を解放する。この頃の精神科施設の目的は治療ではなく社会から患者を隔離することがまだまだ主流であった。そのような中でピネルは道徳療法を提唱し、環境を整え患者が落ち着いて作業に取り組めるよう運動した。これをきっかけにヨーロッパでは収容施設運動と呼ばれ、アメリカにも広がることとなる。
道徳療法と訳されるがこれはむしろ身体的に働きかけてきたそれ以外の治療と区別して精神的な治療法というニュアンスが強調された命名であるようだ。
ピネルの後継者である エスキロールもその活動を引き継いだ。イタリアでもキアルジが同様の活動を行い、患者の開放を推進していた。19世紀に入りイギリスのチューク家は 精神障害者用の居場所を運営し今で言うところの作業療法を行っていた。コノリーは精神病患者の無拘束治療を行うための運動を広めている。 アメリカのディックス は精神科病院の改革運動を進めている。
近代精神医学の誕生
19世紀に入りブローカが大脳皮質に言語中枢を発見する。またオーストリアのフリッツとピッチが大脳皮質に運動野を発見し、精神機能の局在がほぼ間違いないことと認識される。 19世紀の後半には精神に関わる科学は医学の一分野として大きな発展を遂げ、特にドイツ語圏での成果は目覚ましくシュタールやランゲルマンは機能的精神障害と器質的精神障害を区別し脳の病気以外にも心理的な影響によって精神障害が起こると主張した。ハイノートやイデラーはこの考え方を推し進め道徳的な罪悪感や欲求不満が精神障害の原因になりうると主張した。このような精神障害の原因を心因に求めるものを精神論者といい、ヤコビやナッセらは身体論者としてこの仮説と激しく対立している。
その後現れたグリージンガーは精神病は脳の病気であると主張し、脳の生理学的、病理学的、解剖学的な側面の学習を強調して大学に精神病学講座を開き医学の一分野として精神医学を確立した。彼の主張はドイツ精神医学に大きな影響を与え、器質性精神障害の分野で数多くの発見を導いた。 このようにグリージンガーは生物学的な精神医学を推し進めようとしたが裏付けとなる証拠をほとんど見つけられず、若干の神経医学への貢献を別にすれば不発に終わることとなってしまった。
カールバウムは患者の観察を通して緊張病や破瓜病を提唱している。 これらはそれぞれ現在で言うところの統合失調症の別々なタイプに相当すると考えられる。カールバウムの研究を基礎に エミール・クレペリンはドイツフランスの精神病学を集大成し 現在に通じる精神医学の体系を構築することとなる。クレペリン は現在の統合失調症を早発性痴呆と命名し、躁鬱病とともに2大精神病として分類している。彼は精神病院で多くの患者の症状を観察し記述することを通して客観的な精神障害を分類して記録をした。 彼の功績は精神病を一定の結果と結末を迎える疾患の過程を一つの病気として 分類したことである。彼の行った精神医学的なアプローチは記述的精神病理学と呼ばれる。最も現在ではクレペリンの早発性痴呆の中には多くウィルス性脳疾患、嗜眠性脳炎患者が含まれていたと言われる。
精神科医の多くはクレペリンの基準は原因がわからないまま疾患を分類を確立しようとしていることに抵抗を感じて賛同しなかった。
その後やはりドイツのカール・ヤスパースは クレペリンが患者の外側からの観察を記述したのに対し、患者の主観的な体験をそのまま記述するという研究手法を採用した。患者の内的体験が他者からの了解が可能か不可能か を区別した。了解のできない精神的な現象は脳の病的な過程を想定できるとして精神病として理解するべきものとした。 ヤスパースの手法は精神医療に現象学的な視点を導入したと評価される。
この時代の精神医学研究成果は直接現代へと続く精神医学の基礎となっている。特にクレペリンの考え方は後のDSM-Ⅲの成立に多大な影響を与えている。
催眠療法の芽生え-近代的心理療法のはじまり
現代では臨床心理学と精神医学は明確に区別されるが初期の精神医学では治療の主な手段として催眠療法や深層心理学的な手法が採用されており区別されていなかった。また狭義のカウンセリングはそういった意味では心理療法に比較して歴史が新しく近代に明らかな起源が求められる。
このころに脚光を浴びた治療に催眠療法がある。古来から催眠の効果は知られていたがそれを医学的な領域に持ち込んだのはメスメルが最初とされている。その後催眠はサルトリピエール学派、ナンシー学派の論争を通じてジャネやフロイトを通じ深層心理学の扉を開く元ともなるものである。
深層心理学と行動主義
オーストリアのシグモント・フロイトは1895年「ヒステリーの研究」を出版し精神分析理論を整備してゆく。無意識が存在することは以前から知られていたが、それを取り込んで人格論、発達論、治療技法を臨床心理学として初めて体系化したのはフロイトであると言ってよいかもしれない。フロイトの理論はヨーロッパではあまり注目されずドイツでは嘲笑さえされたといわれる。フロイトは1909年にアメリカで公演を行ったが精神分析がアメリカを席巻するのはナチスから亡命した精神分析家を待たねばならない。
1902年ロシアの生理学者イワン・パブロフが条件反射を発見し、アメリカのワトソンが行動主義心理学の基本的な考えを整理していく。
1911年アルフレッド・アドラーは学説上の対立からフロイトとの交流をやめ個人心理学(アドラー心理学)を創始する。
1913年カール・ユングがフロイトと決別する。これにより分析心理学(ユング心理学)が始まったとしてよいだろう。
同年アメリカではワトソンが行動主義を提唱する。
カウンセリングの三つの源流
1896年にアメリカでは初の臨床心理クリニックがペンシルバニア大学内に置かれた。しかし当時の臨床心理学の対象は学習困難、非行などの問題がある子供が対象とされていた。
1904年ソーンダイクによる教育測定運動が始まっている。翌年フランスのアルフレッド・ビネーも児童の知的側面を就学以前に測定する必要性に迫られ知能検を開発している。これらは日本にも紹介され田中ビネー、鈴木ビネーなどのビネー系心理検査の源流となった。
この検査はヘンリー・ゴダードによってアメリカに紹介される。1910年代より教育現場と兵士の選別に用いられることとなる。 これまで有効な手段がなかった学習困難な子供への支援に客観的なテストが導入されることとなった。しかし精神遅滞の診断を医師ではない心理学者が行うことについて精神科医から批判の声も上がった。
しかしこのテストは1920年代に大きな問題のあることが明らかになった。当時のシカゴ市長を知的障害と判断してしまったのだ。この知能検査の信頼性には明らかな問題が存在した 。
精神科の病院はアメリカに多く設置されていたがその実体は精神障害者の収容所であり非人道的な扱いを受けるのが常態化していた。20世紀初頭うつ状態による自殺未遂により精神科に入院したビアーズはそこで医療従事者から患者が暴行を受けている事実に 衝撃を受け 「わが魂に出会うまで」を出版して精神科医療の現場を告発し患者の処遇を改善する精神衛生運動の先駆けとなっている。それは1908年アメリカコネチカット州に精神衛生協会が設立されるという形で結実した。
ソーンダイクは学習理論へも大きな貢献を残している。性格の16因子説を唱えたことで知られるキャッテルのもとで博士号をとっている。猫を使った実験によって試行錯誤学習について研究したことでも知られている。
職業の領域では1908年パーソンズによる職業指導運動が挙げられる。「丸い穴には丸い釘を」というスローガンのもと職業相談所をボストンに開設しキャリアカウンセリングの基礎を築いた。
このようにカウンセリングの三大源流と言われる起源はいずれも20世紀に入ってからのものであり、心理相談全体の歴史から考えるならば まだ浅い歴史しか持たない。またこれらの活動は特定の領域での心理相談の必要性を強く訴える運動として歴史的な重要な意味を持っている。しかし今日カウンセリング技法と呼ばれる特定の学派を形成する相談技術がこれらの運動から直接発生し発展したわけではない。
1930年代の精神医学ではモニッツによるロボトミー、ツェルレッティによる電気ショック療法が開発される。因みにロボトミーはその語源がロボットと関係があるかのように誤解されることが多いが、脳の部位を表す「葉」を「lobe」といい、そこから派生した言葉である。
1930年代アメリカでは児童相談所で精神科医と心理学者が共同で仕事をする機会があったが、この時心理学者の立場は医師よりもはるかに低いものであったという。
しかし1932年ロールシャッハテストがアメリカで初めて論文として発表されるが、後にこれが心理学者の地位を押し上げることに寄与することとなる。
ナチスによる迫害の影響とアメリカでの発展
精神科医のブロイラーは統合失調症の患者が結婚しないようにしなければならないと発言し、ドイツの精神科医であるアルフレッド・ホッヘは生かされるに値しない人々に安楽死を要求する、と主張していた。 このように優生思想は以前から存在していたが、19世紀末に生まれたギャルトンの優生学とダーウィニズムの適者生存、自然淘汰の理論が結びつけた。ヒトラーはこれを実践したのである。
ナチスのユダヤ人迫害はよく知られているが、ジプシーや障害者も差別の対象とされ、そこには精神障害者も含まれる。 この頃臨床心理学を研究していた者の多くの割合をユダヤ人が占めていたが、彼らもナチスに追われることとなった。フロイト派の心理学者が多くアメリカに亡命したことはよく知られている。エーリッヒ・フロム、カレン・ホーナイ、オットー・フェニヘルらは有名である。
アメリカでは1900年頃から精神病患者に対する優生学的な目的に基づく収容が一般化しており不良の遺伝子を拡散しないために患者を病院に隔離する政策をとっていた。ドイツの敗戦後に強制収容所の実態が明らかになった時、それはアメリカの精神病院のイメージと重なり、批判が噴出したことで多くの州で精神病患者を地域社会で治療する検討を始めた。
1927年よりアフルレッド・アドラーはアメリカに講演旅行を開始する。講演は大成功に終わり、その後ナチスに追われる形で本格的に移住していた。1935年のことであった。しかしアドラーが無くなるとアドラーの心理学への注目は急速に衰えた。
アドラーの死後はアドラーの子供たち、クルトやアレクサンドラ、弟子のルドルフ・ドライカースによって個人心理学は発展していく。
精神分析の台頭
このころになると精神分析はアメリカ精神医学会の中に広まり始める。精神分析家になることは精神科医にとって大きなメリットがあった。町から遠く離れた患者の収容施設にいるよりも街の中にオフィスを構えて精神分析を用いて診察を行うと言う新しい 働き方が可能になるのは魅力的であっただろう。
この時代精神医学は有効な治療法も診断方法も存在せず、病因についての体系的な知識も持たなかったが精神分析を採用することによりそれらを手にすることができたのである。
亡命精神分析家を受け入れたことにより、アメリカの社会を観察した新たな精神分析家はフロイトの心理学を修正し、より社会的な視点から精神分析を再構成しようとする試みも多くあらわれ、フロイトの説いた精神分析とは違うスタイルの精神分析も盛んとなった。
アメリカの精神医学の世界ではこれらの運動を受けて新たな精神医学をスタートさせた。精神分析理論に基づく力動精神医学の始まりである。やがてそれはアメリカ精神医学会の主流な考え方になって行くのである。
1940年代になるとロールシャッハ・テストは心理学者が患者の深層心理を魔法のごとく読み解くツールとして一般化する。現代ではエビデンスに問題があり、使用が推奨されていないロールシャッハ・テストであるが、当時は精神分析的解釈を援用しながら患者の心の奥底まで見通せる道具であり、それを使いこなせる者としての心理学者の地位を高めることとなった。それにより臨床心理学の対象を児童以外へと拡大することに成功し、発展への道を大きく開くことともなった。
アメリカでは臨床心理学の方法として精神分析と行動療法が 普及していく中、その系統に属さない新しい臨床心理学が動き始めていた。
実存主義哲学に大きく影響を受けた人間主義心理学である。1942年カール・ロジャースは「カウンセリングと心理療法」を発表。 1943年アブラハム・マズローは「人間の動機付け理論」を発表。1946年ヴィクトール・フランクルは自らの収容所体験をもとに「夜と霧」を著した。
この頃には問題を解決するのに個人の 無意識、嗜好、感情に焦点を当てる心理学だけではなく家族のコミュニケーションを実際に観察し介入すると言う新しい観点からセラピーを行う者が現れ始める。家族療法の萌芽である。この時の家族療法家のよって立つ理論は精神分析であった。アッカーマンは有名な実践者の一人である。
戦後の臨床心理学の運動
戦争を遂行する上で兵士の健康管理が重要となるが、当時アメリカ軍が兵士の精神衛生の問題を効果的に扱うために 精神科医を集めてその仕事に従事させていた。陸軍が行った仕事の一つが新たな精神障害分類の 記述の試みである。退役軍人長がそれを引き継ぎ、さらにアメリカ精神医学会が修正を加え「精神疾患の診断と統計のマニュアル」第1版として1952年に発表した。
心理療法は亡命心理学者を多く受け入れたアメリカで大きな発展を遂げることとなる。
ヨーロッパの臨床心理学にはあった現在の社会的な価値を批判しながら人間の生を考えるという立場はアメリカでは姿を変え、現在の社会的な価値に基づいた実利を追及するうえで適応的になるためには、という即物的な立場をとることになったとの指摘もある。
これを人の実存を追及する姿から刹那的な利益を求めるための心理相談として一種の文化の後退と見る見方をするものもあることを付け加えておく。
向精神薬の開発
1949年に気分安定薬であるリチウムが開発され、1952年にフランスで向精神薬クロルプロマジンが発明、1957年には三環系抗うつ薬が、1960年には神経症の治療に用いられる抗不安薬のベンゾジアゼピンが開発される。それまで精神障害者を効果的に治療する薬剤はなく、精神障害者を科学の対象として 取り扱うまでに社会的な環境は整いはしたものの効果の高い支援の方法を専門家も手にしていなかった。
そのためそれ以前は 精神分裂病や躁うつ病に対してのインシュリンショック療法や進行麻痺に対しての発熱療法に加えて心理療法が行われていた。このような治療の選択肢の乏しかった状況を背景として心理療法は試行錯誤を続けてきた。心理療法は精神科領域の中で患者に対して働きかけ得る数少ない手段の一つとして医師が行う治療の技術として発展してきたのである。
当初臨床心理学は創始者の観察と思索に基づいて構築された理論と技術の体系であったが、やがて客観的な効果測定に関心を持つものも現れた。
イギリスの学習理論に基づく アンス・ハイゼンクは精神分析の治療効果を 検討し、精神分析を受けた神経症患者の方が自然寛解する神経症患者よりも長く時間がかかると発表した。現在ではアイゼンクの統計には誤りも見られると指摘されているが精神分析の効果に対して現在までも続く疑問を提起した意味は大きい。
1960年ころにはワトソンの考えは新行動主義と呼ばれ次世代へと引き継がれる。やがてそれは物理学の考え方の影響を受けたエドワード・ トールマンとクラーク・ハルと内的概念を扱わないバラス・スキナーに二分された。
このころにはマズローやロジャースの心理学第三勢力と呼ばれ、施術する者は心理学者ではあっても精神科医ではなく、心理学を用いた相談活動が医師でなくても行えるという流れが生じてきた。
家族療法は発展を続けており、この時代様々な家族療法理論が発展する。ヘイリーの戦略派、サルバドールミニューチンによる 構造派 、ボウエンの拡大家族システム派などが著名。
また、このころの家族療法家はベイトソンやミルトン・エリクソンの影響を受けたものも多く、家族療法はブリーフセラピーとも強いかかわりを持つものがある。
ミルトン・エリクソンの精力的な活動によって催眠療法も再びクローズアップされている。
反精神医学運動
1961年トマス・サスは「精神疾患という神話」の中で精神疾患は精神医学による創作であると主張した。この運動は反権威主義的なスローガンが社会の共感を呼び大きな盛り上がりを見せる。反精神医学の始まりである。
向精神薬の開発は欧米では精神障害者の社会復帰への取り組みを加速させることとなり1963年アメリカではケネディ大統領により精神科医療が入院中心から地域生活中心へと転換をしていく中反精神医学運動は益々膨らんでいった。
1969年サスはサイエントロジー教会とともに市民の人権擁護の会を設立する。 ちなみにサイエントロジー教会は今日まで続く反精神医学、 反臨床心理学を旨とするカルト集団として認識されており、我が国でも活動している。
その後も反精神医学運動は反権威主義的な社会活動団体との協力を強め社会に大きな影響を与えた。
この運動から精神疾患の不調のケアを精神科医が独占する構図が崩され、臨床心理士、ソーシャルワーカ、ニューエイジ・ カウンセラー、エンカウンターグループのファシリテーターなどの専門家や非専門家が広く患者の精神的なケアの産業に進出するきっかけの1つとなっている。
医師以外のこれらの職業の者に精神分析の学習者が多く現れたのは、力動的精神医学が精神医学として存在を続けることが難しくなったことと無関係ではないだろう。
1975年には医師資格を持たないセラピストの数が精神科よりも多く存在する状況となった。
1973年に「サイエンス」紙誌上に「正気の人間が精神科施設に入ったら」という論文が掲載された。ローゼンハンによるこの実験ではアメリカの12の精神科病院に8人の精神的健常者を入院させるという社会実験であった。この実験の結果一人が躁鬱病、他のすべてが分裂病と診断され誰一人として仮病であることが見抜かれることはなかったのである。
この 研究は反精神医学運動を大きく活気づけることになる。
同じころアメリカとイギリスの共同研究によって映像を介して同じ患者をそれぞれの精神科医が診察した場合にその診断名が一致しないということも診断のあやふやさを実証するものとして受け取られた。
この当時の精神医学は精神分析理論に基づく力動精神医学に支配されており診断や治療に対して信頼性の認められた科学的な方法が存在しない状況にあり、1970年代に入っても反精神医学運動による攻撃をかわすことができなかったのである。
このようなアメリカの社会的な背景をもとに DSM の第Ⅲ版の編集責任を任されたロバート・スピッツァーはひとつの大きな決断を下すことになる。これまで DSM の診断は力動的精神医学に基づくものであったが、彼は精神分析を支持する多くの医師の反対を退けて第Ⅲ版よりクレペリン流のき記述診断を採用し、診断の信頼性、精神医学上の共通言語の確立などに大きく貢献することとなったのである。
力動精神医学の凋落と向精神薬の飛躍的な開発により これ以降の精神医学は生物学的精神医学へと大きく舵を切ることとなる。
現在の心理療法の趨勢
これまでドイツの精神医学では精神障害の内容を推定される原因別に三つに分けて考えていた。 心因性、外因性、内因性の三つである。
操作的診断基準の主流化
操作的診断基準とは過去に用いられていた伝統的診断分類は地域によっても一定しておらず、病因についても明確にはできないことも多く、それらの欠点を克服すべく最新の研究を盛り込んだより簡便な診断基準を制定した。現代ではこれがほぼスタンダードになりつつある。世界保健機構が制定しているものを「疾病及び関連保健問題の国際統計分類」、略称 ICD といい、アメリカ精神医学協会が制定したものを DSM という。しかし一方で様々な欠点というよりも欠陥が報告されてもいる。
エビデンスベイスド
一般医療で統計的に治療方法と治療効果を検証する活動が盛んとなり大きな成果を収めることとなった。それを受けて精神科医療でもエビデンスベイスドに基づく医療が推奨される。
それに伴い臨床心理学の世界でもエビデンスが重視されるようになった。
統計的な効果検証が強調され、哲学的な思弁に基づく心理療法が効果検証を行われるようになり、心理療法の効果がある流派ない流派が区別されるようになった。
どのような精神障害にどのような心理療法の技法が効果的かという検証が勧められる一方で心理療法は流派による効果量に差がなく、どれも等しく効果があるという研究まで現れ「ドードー鳥の裁定」として知られる。しかし精神分析も行動療法も効果が一緒という結論付けはやはり無理があったようだ。内容を精査するとやはりドードー鳥は存在しなかったようである。
効果研究は心理検査にも及びエクスナー法を含むロールシャッハ・テストをはじめとする投影法心理検査やMBTIなどの質問紙検査が効果のないとされている。
その結果特に統計的実証研究に耐えた心理療法として認知行動療法、対人関係療法、などの新しい心理療法が注目を集めることとなった。
統合心理療法の模索
20世紀中は臨床心理学各派がそれぞれの立場の優位を説き、他派の心理学と論争を繰り広げたが、やがて20世紀後半頃より統計的な効果検証が盛んになるにつれてどのような症状にどのような心理療法が効果的であるのか、という検証がアメリカを中心に盛んになる。
わが国での精神医療の歴史
ヨーロッパとは異なりわが国では精神障害者に対しての宗教的な偏見は少なく、古くから精神病院は病であると考えられていた。そのため組織的に迫害されると言う不幸な歴史はなかったと言われている。日本では古来より仏教寺院に患者を堪能させてその霊験を得ようとする慣習があった。701年の大宝律令の中でも癲狂者の犯罪は特別な扱いをするように記されている。11世紀に後三条天皇の皇女が精神障害を 発症したが京都の岩倉村にある大雲寺に籠り霊泉を飲んだところ、これを治癒することができたと伝わっている。それより精神障害者が岩倉村の農家に下宿し村民の 世話を受けていたと言う。この伝統に基づいて明治14年にこの地に癲狂院が設立されている。ベルギーのゲールの町のような機能を果たしていたと言えるだろう。
江戸時代には寺院の境内などに精神障害者ための宿も作られているが、大部分は放置、隔離されていたようである。
我が国に初めて精神病院が設立したのは1875年、明治8年に京都の南禅寺の境内に京都府 癲狂院である。その後も現在の上野公園の敷地内にも設立された。現在の都立松沢病院の前身となる東京府癲狂院である。それ以外にはほとんど設置が進まず、警察の許可を得れば自宅に精神障害者を監置することが合法で行える状態が継続していた。 1879年、明治12年にはドイツのベンツが来日し東京大学で初めて精神医学の講義を行っている。
しかし1883年、明治16年に起こった相馬事件をきっかけに精神障害者の 監禁問題について社会が直面することとなる。 これは旧中村藩主が統合失調症と考えられる精神障害により自宅に監禁されたのを経て最終的に東京府癲狂院に入院させられていた。旧家臣の錦織が 主君は精神障害ではなく悪人の陰謀により癲狂院に監禁されたと訴えでた。これを契機に
1900年、明治33年精神障害者監護法が制定され精神障害者の監禁が禁止された。この法律は社会防衛的な色彩が強く、管轄が警察部の所管とされていた。手続きを取れば私宅監置が認められていた。
ドイツのクレペリンの下で学び、帰国後東大精神科教授として東京府立巣鴨病院院長に就任した呉秀三は1118年、大正7年、私宅監置の実態を調査し、1919年、大正8年の精神病院法の制定に寄与した。 これにより道府県立精神病院の設立が促進される。 大東亜戦争をはさみ公立病院の設置はしばらく中断されるが戦後は精神科医療行政は内務省の管轄から厚生省へと移管され1950年精神衛生法が施行される。これにより自宅監置が廃止され都道府県には精神科病院の設置が義務付けられることになった。
その他にも精神衛生鑑定医制度、措置入院制度、指定病院制度が整備される。しかし精神科病院は一般科の病院よりも人件費や医療費が安く抑えられるため、 利益率が高いという側面もあったため民間の精神病院の数が増え、 精神障害者の隔離が促進されると言う副作用もあった。そのため精神障害者の社会復帰が注目を浴びることが諸外国に比べると大きく遅れ、 精神障害者の入院処遇に関しても閉ざされた空間の中で 人権侵害が多発するなどの事案が相次ぐこととなった。
1964年、昭和39年にはライシャワー事件が起こる。これは精神障害者がアメリカ大使ライシャワーを襲い刃物で重傷を負わせた事件である。これにより再び精神障害者への社会防衛的側面が強化されることとなった。1984年、昭和59年に栃木県の宇都宮病院では職員による患者 への暴行がエスカレートし殺人に発展した。この事件は世界的な関心を呼び国際委員会による査察を受けるに至っている。これを契機としてわが国でも入院中心から地域精神医療への移行期を迎える。 1987年、昭和62年に精神衛生法は精神保健法へと改称される。 1955年、平成7年には精神保健福祉法と改められ法的に精神障害者も障害者として認知されることとなって現在に至る。
わが国での心理療法の発展
1919年森田正馬により森田療法が整備される。
1930年国際精神分析協会日本支部を矢部八重吉が発足させる。
1953年吉本伊信が内観研修所を開設し内観療法の実践を行う。
1965年河合隼雄がスイスのユング心理学研究所よりユングは分析家の資格を得て帰国。
1982年野田俊作がシカゴ・アルフレッド・アドラー研究所に留学しアドラー心理学を日本に普及させる。
1985年成瀬悟策はこれまでの催眠の経験などを肢体不自由の身体コントロールに生かした経験を心理療法にも応用した実践を書籍の形で出版する。
その後もゲシュタルト療法、交流分析、家族療法など多くの心理療法が紹介される。
我が国の臨床心理学は欧米からの影響を受けながらも固有の心理療法も発達させてきた。森田療法などはネオ森田療法として海外で普及したこともあった。
我が国での心理学関連資格の創設
国内では長らく臨床心理学にまつわる業務に携わる者は海外の資格を取得するか無資格で仕事をしてきたが、精神衛生の問題がクローズアップされてきたことを背景に複数の資格を作る動きがあった。その中には医療心理師など頓挫したものもある。
カウンセラーの資格は業務独占の資格ではないため数々の団体が任意の資格を創設しているが、ここでは実績のあるものを取り上げて紹介する。しかしながら発達障害者が注目を集めている中、一般社団法人臨床発達心理士認定運営機構の定める臨床発達心理士などは現在注目を集めている。
臨床心理士
1988年医療、福祉、教育、産業、司法などの領域を広く対象とできる心理の専門家として公的な資格のない状況を問題と考える専門家が数多くいた。国内で複数の心理学団体が公益財団法人臨床心理士資格認定協会を立ち上げ普及に努めてきた。経過措置の期間は大学学部卒でも受験可能であったが現在は修士課程卒以上である。公認心理師成立以前は準公的な扱いをされていた本資格であるが、公認心理師成立以後は翳りが見られるのでは、という声もある。また臨床心理士が受験を許可されない職域で公認心理師が認められるなど公的な資格に比べて存在感が薄くなりつつあるのでは、という指摘もある。
そのような中で臨床心理士は専門性のより高い質を維持することで差別化を図るという戦略を取るのではと思われる。また孤立化を避けるべく各地域の臨床心理士会の多くは公認心理士協会へと名称を変更しどちらの資格者もメンバーとすることで共存を図っている。
公認心理師
2018年心理職に待ち望まれていた心理職の国家資格が受験開始となった。国家資格であるため臨床心理士では協会ルールとしての守秘義務という位置づけであったが、国家資格である公認心理士は違反に対して法的な罰則が課せられることとなった。専門学校卒業でも取ることができ、その専門性に不安があるという指摘もある。また、臨床心理士は医師の指示を受けずに業務を行えるが公認心理士は相談者に主治医がいるときはその指示を受けることが明示されている。
内容がソーシャルワーカー的側面が強調され、特定の流派に偏らないように推奨される。しかし技法の折衷は可能であるが理論の折衷は本来できないものである。全く違う人間観に基づく心理学を便宜的にまとめたり、ご都合次第で使い分けてしまうようなことになると、互いに矛盾した理論はまとまりを欠きカウンセラーの人間心理への洞察を浅い者としかねない。
また個室の中だけで仕事をするカウンセリングに批判的で多職種と連携し、心理面接以外の仕事をすることを強く推奨されている。これは心理の職域が広がったことと面接だけを守備範囲としようとしたカウンセラーの姿勢が多職種から批判を集めたことの反省を下地にしているように思われる。
このようなスタイルが一般化すると本当に面接に熟達した専門家が育つとは考え難い。社会的な位置づけが安定するのと裏腹に専門家のアイデンティティをどのように保つかが問われていると言えるかもしれない。
相談者に満足してもらえるだけの能力を手に入れるには、より専門的なトレーニングを積む必要があるだろう。
公認心理師は国家資格であり臨床心理士よりも学歴条件が緩やかで専門学校卒でも受験できるため今後臨床心理士以上に受験希望者が増加すると考えられる。
産業カウンセラー
1960年に一般社団法人産業カウンセラー協会が発足し1970年に労働大臣認可の社団法人となる。1991年には労働省の技能審査資格として認められたが2001年より除外されたため現在は民間資格である。資格は二本立てで「産業カウンセラー」と上位資格の「シニア産業カウンセラー」となっている。
受験の要件は大学で所定の要件を満たした者か産業カウンセラー養成講座卒業である。名称の示す通り産業領域で行うカウンセリングが目的。心理学的な専門性の高さを社会から認められているとは言い難く、スクールカウンセラーやその他の心理職の応募要件となる機会は先述の二つの資格に比較して比べ物にならないほど僅かである。臨床的な目的で心理相談を考える場合、選択すべきなのは臨床心理士、公認心理士を持つ専門家だと認識しておいた方が良い。
心理相談の学派
有名な分け方としては臨床心理学の発達の歴史的な段階に即して臨床心理学の三大勢力として分けるやり方が知られている。しかし学派によっては 複数の特徴を備えているものもあり、必ずしも綺麗に分類されているとは言い難いし、そこで厳密な区別を試みることに 特に意味があるとも思い難い。またこの三つの中に分類されない様々なセラピーも多く開発されている 。
深層心理学(第1勢力)
精神分析
フロイトの精神分析を発展、改変した深層心理学のグループ。無意識の中で起こる葛藤を重視する。フロイトは性的エネルギーを様々な精神活動の根本と考えたが、アメリカに渡ったものを中心に性的エネルギー説を破棄し、社会的要因を元にして精神分析を解釈しなおした。これらの立場の者がネオ・フロイト派と呼ばれる。現在では大きく自我心理学、対象関係論、自己心理学、ネオフロイト派各派に大別される。
分析心理学
カール・グスタフ・ユングが提唱した無意識の働きを前提に組み立てられた心理学。無意識の中には個人的な部分と人類に共通の普遍的無意識が存在すると考えた。元型と名づけられた人類に共通する核となる機能、イメージが存在し、そのイメージが現れるとされる夢の分析を重視する。精神分析のようなはっきりとした分派ではないが古典学派、元型学派、発達派に大別される。アーノルド・ミンデルのプロセス指向心理学はユング心理学を母体として様々な要素を加え発展させたものと考えられ、トランスパーソナル心理学の1派としても位置づけられる。
個人心理学
アルフレッド・アドラーによって創始された心理学。人の活動は劣等感を乗り越えるべく個人の設定した無意識的な目標へと向かう運動として説明されうると考え、それをライフスタイルと呼んだ。それは現在を観察することで理解することができ、クライアントを知るうえで過去の体験を原因とはみなさない。環境からの影響をどのように受け取り、決断したかという個人の要因を重視したカウンセリング、セラピーを行うことでライフスタイルの成長を図る。シカゴ学派、ニューヨーク学派、ドイツ学派 などが存在する。
精神統合(統合心理学)
イタリアの精神科医、ロベルト・アサジオリが提唱した心理学。無意識を下位、中位、上位を持つものと考え、パーソナルセルフからトランスパーソナル・セルフへの成長を志向し、トランスパーソナルなあり方へと近づくことを説く心理学であり、ユング心理学との類似性を指摘する者も多い。日本では自己啓発領域で採用している人々が一部いる様子だが臨床心理学として行なっている人はいないかもしれない。トランスパーソナル心理学の先駆と位置づけられる。
運命心理学
ハンガリーの心理学者レオポルド・ソンディがフロイトの個人的無意識とユングの集合的無意識の間に家族的無意識の存在を仮定した。行動の傾向が祖先から伝わっており、それを運命と呼んで分析の対象と考えたのである。自らの理論を実証するために実験衝動診断法(ソンディ・テスト)を開発。それによって結婚、職業、犯罪や自殺などの衝動傾向を読み取ることができると考えられた。現代ではソンディ・テストが細々と継承されている状況。我が国では以前は司法領域の心理担当者の間に普及していた。現在も細々と関東、関西で学習している人たちがいる。
行動療法(第2勢力)
特定の人間観や哲学に基づくものではなく、生物に備わる学習能力の特徴を実験を通じて明かにし、科学的に蓄積された知見の蓄積から心理的な問題の解決を計るべく方法を組立てたものの総称を行動療法といい、その中には新行動S-R仲介 理論、応用行動分析、観察学習など複数の理論が含まれている。そのため基礎研究を行った多数の学者や著名な臨床家を多く含むがその他の学派のように1人の創始者がいる訳ではない。
生物の目に見える行動に焦点を当て、心の中身については対象外としたことにより、客観的に測定するという意味では最も科学的な技法体系といえる。
認知行動療法
本来の行動療法では先述したように思考という領域は対象外であったが、応用技術として行動療法を用いている臨床家からは行動療法の限界を乗り越えて更に効果的な手法を求める者が次第に増えた。やがてベックの認知療法などの効果的な手法を併せて用いる立場があらわれ、認知行動療法という技法体系を築くに至るが、基礎理論として考えるならば行動科学と認知科学が統一的に説明される、などの理論的な整合性、統一性が存在するわけではない。
効果的な技法として近年急速な広まりを見せている。
第3勢力)
クライアント中心療法
アメリカ人のカール・ロジャースによって開発された。日本には1940年代に佐治守夫教授により紹介されている。
日本のロジャリアンによる面接はクライアントが自ら語ることにより成長が促され、やがて気づき問題の解決に至る、との考えからカウンセラーからの質問、アドバイスは禁忌であるらしい。そのため時々なんのアドバイスももらえなかった、との不満をクライアントから聞くことがある。
知的に高いクライアントには効果があるとのエビデンスもある。しかし多くのクライアントへの適用を考えると効果的とは言いづらい。
ゲシュタルト療法
精神分析を学び、後に決別したフレデリック・パールズによって始められた。ドイツに生まれ最後はアメリカに落ち着いた。エンプティ・チェアの技法を開発したことは有名。
過去を後悔し、未来の計画に心を奪われがちな人々の「いま・ここ」での気づきを重視し、未完の問題に向き合うことで成長を促していくことを特徴としている。その過程での感情的な場面を迎えることも往々にしてある様子。
交流分析
精神分析を簡易化するという問題意識に基づきカナダ人のエリック・バーンの創始した心理学。人間の心の状態を大きく5つに分類し、それぞれの配分で行動の特徴を説明する。それに用いる検査をエゴグラムと呼び、現在でも精神科などで利用される。
また人間は無意識の脚本という個人の価値観とそれにそった生き方を信念として持ち続ける存在であり、それが人の人生を個性的なものにするし、問題となる行動の大本ともなる、と考えている。
その分かりやすさは大衆化とも受け取られ精神分析の立場からは批判された。
合理情動行動療法
アドラー心理学を学んだアルバート・エリス(アメリカ国籍)が開発した心理学である。以前は論理療法と筑波大の国分康孝教授の意訳で呼ばれていたが、最近では現在の名称で呼ばれることが多い。アドラー心理学的な認知的手法と行動療法を統合したカウンセリング手法を用いる。
アルバート・エリスは人間主義心理学に含まれることになってはいるが、中身は認知行動療法の理論、技法とそれほど変わるところがないと言える。あまり適切な分類ではない例としてはアドラー心理学もその一つである。アドラー心理学は人間主義心理学として分類されることが一般的だが、その理論や技法の中には深層心理学が位置づけられているので、その観点からは間違いなく深層心理学の一分野であると言える。ただ人間の深層心理のみを対象としてにこだわることはなく、それ以外の幅広い人間の活動を その理論と技法の対象としている点やその共同体感覚という思想のヒューマニスティックな内容に注目した際に人間主義心理学の一派として分類されたものと思われる。
トランスパーソナル心理学
人間の心の成長を個人的な欲求が満たされた状況を超えて自分の存在は世界の一部であることを悟り、自己のニーズ中心ではなく、世界の求める所にしたがい、それに応えて生きることに人生の意味を見出した生き方を送ることが、強く自分が存在することへの自信、意味に目覚める心性が人間にはあり、自己を超えた心の成長を目的として非日常的な意識の状態やそれに至る過程、技法を研究する心理学。健康な人が更に高みに近づくための心理学。
その自己を超えた価値観を説明する際にスピリチュアルなどの言葉を多用するため日本の社会では誤解を招きやすく際物扱いされ易いかもしれないが、目ざる所はこれからの社会にとって必要な視点を提供している。
人間性心理学の理論家の一人であるアブラハム・マズローやアンソニー・ステッチ、スタニスラフ・グロフ等によって提唱されてトランスパーソナル学会が作られた。 そのため様々な理論や技法があり 未だ発展途上中である。これを称して第4勢力と呼ぶものもある。
意識を変容させるためのブレスワーク、アイソレーションタンクなど制御の難しい試みも多く導入されているが、臨床的な課題を抱える人がそのワークを試みることにはリスクが大きすぎるように思う。
エナジー療法
EMDR、TAT、ブレインスポッティング、ソマティック・エクスペリエンシングなど多様な技法が存在する。
体の両側を交互に刺激する、経絡を刺激する、イメージを思い浮かべてもらって操作する、などの作業を通じて個人のトラウマをはじめ苦手としていることを乗り越えるために用いられることの多い、歴史的に新しいセラピー群。まだまだ様々なものが開発されて行くことになると思われる。一定の評価を得ているが疑問を抱くものも多いように思われ、安定した評価はこれからとなると思われる。
ブリーフセラピー
MRI派、戦略派、ソリューション・フォーカスト、ネオエリクソニアン
ミルトンエリクソンに師事し研究した心理学者らが立ち上げた治療技法群の総称。それぞれエリクソンの逆説療法に注目したり、 催眠技法を継承したりなどミルトン・エリクソンの一部を取り出し発展させたという特徴がある。
ブリーフセラピーという名称はそれ以前のセラピーに比較して短期間で行われるため、というのが現在の説明であると思われるが、実はグレゴリーベイトソンが提案した名称が長かったのに対してエリクソンがもっと短い(ブリーフ)方が良いのではないか、と提案されたのを受けてベイトソンが勘違いしたのがきっかけだったという 。
NLPという一時期はやった技術もあるが、現在臨床家からは評価されていないように思われる。面白い技術も含むがこれだけで臨床の用を成すかといえば心もとない、という所ではないだろうか。
家族療法
1984年のニコルの分類によって紹介するならば、精神力動的、集団的、体験的、 行動論的、 拡大家族システム論的、コミュニケーション的、戦略的、構造的の8つに分けられるという。
個人療法の理論を家族に拡大したもの、集団療法の理論を家族に当てはめたもの、家族を扱うために生み出された理論など様々であり、家族を単位とするという共通点のみで一つのグループにまとめられている。
日本の家族療法学会などでは一つ一つの理論別に学ぶということはないらしく、様々な家族療法の理論や技法を 機に触れ折に触れて学ぶものであるらしい。家族療法を統合的に捉える動きとして考えられるのかもしれない。
統合心理療法
各派の心理療法の長所を必要に応じて利用できるよう、心理療法を統合する考え方が生まれる。どのように統合すべきかについてはいくつかの立場がある。
1各学派の理論の統合を目指すもの
2クライアントの特徴やニーズに合うように治療技法を折衷するもの
3各学派に共通して存在すると思われる共通の要因を抽出しようとするもの
4一つの学科に所属しながら他の学派の理論や技法を取り入れようとするもの
催眠療法
催眠技法をセラピーに応用するものすべての総称。そのため用い方によっては精神分析的に用いることも行動療法的に用いることも可能である。
また催眠療法として行われることを前提に開発された自我状態療法なども存在する。
ナラティブセラピー
オーストラリアのマイケル・ホワイトが提唱し、現在ではアンダーソン、グリーシャンのコラボレイティブアプローチ、アンデルセンのリフレクティングチームなどクライアントの物語(ナレティブ)が問題の解決されるものへと書き変えることを目的としている。
人が事実だと思っているものは自分の認識というフィルターを通してえられた解釈であるが、人の語る物語を心理社会的に構成されたものとして社会構成主義的に理解し捉える所に特徴がある。
クライアントが語る問題が解決しない物語はドミナント・ストーリーと呼ばれ、家族関係の中で構成した物語である。 問題のある物語が心理社会的に構成されたものならばその物語が問題が解決できる物語・オルタナティブ・ストーリー(問題が解決する物語)に語り直されれば(再構成されれば)問題が解決することになる。
日本生まれの心理療法
森田療法
森田正馬によって神経症治療のため開発された技法。 神経症的な考えから逃れるのではなくそれと向き合うことを奨励するのが特徴。そのために絶対臥褥などの入院治療を行うこともある。ネオ森田セラピーとして海外でも取り入れているところがあると聞く。
内観法
吉本維新によって浄土宗の身調べという修行法をもとに開発された。両親などとの関係を「してもらったこと」や「して返したこと」などを振り返ることでわが身を顧みることをも目的としている。
臨床動作法
成瀬悟策によって開発された催眠療法からの影響の深いセラピー。 肢体不自由の障害者が筋肉の緊張をうまくコントロールするようにサポートするために用いられ非常に効果的であったが、その後セラピーの対象を拡大して好成績を収めているとのことである。